2024.01.30 22:00
小説・お父さんのまなざし
徳永 誠
父と娘の愛と成長の物語。
誰もが幸せに生きていきたい…。だから人は誰かのために生きようとします。
第9話「死んでも生きる」
4月10日、満開の桜が葉桜に変わる頃、娘のナオミは14歳の誕生日を迎えた。そして同じ日、祖母のタツコは74歳になった。
そうなのだ。60歳離れた祖母と孫娘は同じ日にこの世に生を受けたのである。
ある脳科学者によれば、12歳は思春期の入り口だという。13歳から15歳の時期がまさに思春期で、脳科学的に表現すれば、子供脳から大人脳への移行期が思春期となる。
確かにナオミは思春期のど真ん中にいた。中高生期の青少年たちは、子供から大人になろうと、必死に求め、もがき、苦悩する。
妻のカオリが生きていたら、ナオミはどんな思春期を過ごしただろう。女性としての成長について、先輩でもある母親の声に耳を傾け、その経験と知識を共有しながら日々を過ごしていただろうか。
カオリが亡くなり、母親代わりになって孫娘の面倒を見たいと、ナオミと同居することを決めた時、母はこう言った。
「女の子を育てられるかしら…。男の子は育てたことがあるけれど、女の子は初めて。60歳の年の差は変えられないけど、おばあちゃんの子育てを楽しむしかないわね」
母はカオリの霊前に毎朝食事を供えた。母は信心深い人だ。何十年もの間、神道の神様とご先祖さまにしてきたことではあるが、嫁の遺影に毎日向き合うことになろうとは夢にも思わなかったはずだ。
写真の中のカオリに向かって心の声で語りかける。誰もいなければ、きっと声に出して話しかけていることだろう。
「カオリさん、ナオミのことが心配でしょう? あなたの心残りは夫のタカシのこと、そして何より、まな娘のナオミの成長のことが気がかりでしょう? あなたがいつも見守っているのを、私は知っていますよ。同じ母親としてあなたの気持ちはよく分かっているつもりよ。ナオミのためにしてあげたいことがあれば何でも言ってちょうだいね。私にできることは何でもするから。遠慮しないでね、カオリさん」
朝一番の霊前への供え物をささげるひとときは、母がカオリにナオミのことを報告する時間となった。
人は古来、死者の声を聞こうとしてきたし、死者に生者の声を届けようと試みてきたのである。
無宗教化が進み、科学万能主義に覆いつくされた現代にあっても、死の壁を超えて愛する人と「会いたい」という心情を奪うことはできない。
19世紀から20世紀のイギリスでは、生者と死者が交流する降霊会が盛んであった。とりわけ第1次世界大戦の頃、戦争で父を亡くし、夫と死別し、息子を失った女性たちが死者との再会を望んだのである。
もちろん、愛する人との再会を願う心に男女の別はないだろうが、その思いの強弱の程度には明らかに差があった。
母の孫娘への愛情、そしてナオミの母親であるカオリへの共感の思いは強いものだったのだ。
社会の常識と合理主義に飼いならされた私の頭は人間の本来の愛らしさというものを失っていた。
人間が永遠の生命を持った存在であり、その生命が永遠に生きるための世界があることを信じていながら、生者と死者とを分けて考え、シールドに囲われた狭い空間のみで呼吸している自分の姿があった。
幼少の頃から母の姿を通して霊界の存在を受け入れてきたし、何より、統一原理を知って、価値観の中心に神と霊界の実在、そして人間が永生する存在であることを見いだした私ではなかったか。
母は何を語るわけでもなかったが、母の生き方に触れるたびに、信心と行いがかけ離れた自分であることに気付かされた。自分は薄っぺらな信仰者だと自虐的にもなった。
カオリの遺影の前で毎日報告を欠かさなかった母は、ナオミが12歳になった頃からしばしば夢でカオリと対話するようになる。
一方で孫娘の話を聞くことを惜しまなかった。飽くことなく、ふんふんとうなずきながら、熱心に耳を傾けた。
母のおかげだ。
生者と死者が一緒に本を読み、文鮮明(ムン・ソンミョン)先生の教えを学ぶ時間も持てるようになった。
ナオミが祖母の手伝いをすることも増えた。
「おばあちゃん、お料理教えて。ナオミ、おばあちゃんの料理、大好きだよ。おばあちゃんの好きな料理のレシピ、全部マスターしちゃおっかな~」
祖父母がナオミのために何か特別なことをしたわけではなかったし、ナオミが祖父母に要求することは何もなかった。
ただ祖父母と孫が一つ屋根の下で一緒に寝て、食べて、対話をして、生活を共にしているだけだった。
突然の訃報が届いたのは、ナオミの14歳の誕生日から3カ月が過ぎた頃、まだ梅雨の空模様が続く金曜日の蒸し暑い午後のことだった。
義父が亡くなった。カオリの父、ナオミの祖父である。
私の母と同じ、くも膜下出血で突然倒れた。義父は生存率50%にとどまることはなく、自宅から病院に運ばれた時にはすでに絶命していた。
カオリは一人娘だった。
大分県の由布岳の麓で生まれ、大学生として上京するまでそこで育ち、由布岳にも父娘(おやこ)でよく登った。
東京に出ることを両親は反対したが、多くの若者がそうであるように、カオリもまた、外の世界に触れて自分の可能性を確かめたかったのである。
カオリの両親はカトリックの信仰を持つクリスチャンだった。
大学生だったカオリが統一教会に通うようになると、両親は悩み、葛藤し、苦しんだ。キリスト教会は統一教会を異端と見なし、激しく嫌悪し、敵対したが、カオリの両親は盲目的に反対することはなかった。カオリの話に耳を傾け、両親もまた、カオリに自分たちの信仰を証ししたのである。
カオリの父も母も学生時代にキリスト教と出合っていたが、カオリの父の両親も母の両親もわが子がキリスト教の信仰を持つことに対して強く反対した。
カオリの父と母はカトリックの信仰がきっかけで知り合い結婚するようになったが、その結婚に対しても親族は反対し、最後まで祝福しなかった。
カオリの両親は信仰を理由に娘を否定することはしたくなかったのだ。
カオリが亡くなった後、カオリの両親との関係が疎遠になっていたわけではない。会う回数は減ってしまったが、カオリの両親は孫娘を愛した。成長し、カオリに似ていくナオミの姿を写真に見つけては喜んだ。
訃報を受け取った私とナオミはすぐに大分に向かった。一人残されたカオリの母親のことが心配だった。
私の両親は二日遅れで葬儀に間に合うよう大分の湯布院の地を訪れた。
カトリックの葬儀が行われた翌日、カオリの母は私たち四人を再び葬儀の行われた聖堂に招いた。
「このたびはありがとうございました。突然夫が倒れて気が動転してしまって、不安な気持ちにもなりましたが、葬儀を通して、最後には平安な心で夫を天国に見送ることができました」
カオリの母が淡々と話した。気丈に振る舞うカオリの母だったが、その表情に娘と夫に先立たれた悲しみの色は隠せなかった。
「皆さん、お願いがあります。夫のために、そしてカオリのために、私と一緒に祈っていただけないでしょうか」
カオリの母は頬を少し紅潮させながらも、しっかりとした口調でそう言うと、ナオミの手を握り締めた。
カオリの母は、最初に聖書を読んだ。
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる…』」(ヨハネによる福音書 第11章25節)
その時だった。
私の母が唐突に語り始めた。
「カオリさんのお母さま、そのとおりですよ。ご主人もカオリさんもここにいらっしゃいます。『死んでも生きる』、そのとおりだ、とお二人はおっしゃっていますよ」
カオリの母は目を丸くして私の母を見つめている。
ナオミは二人の祖母の間に立ってそっと二人の手を取った。
【登場人物】
●柴野高志(タカシ):カオリの夫、ナオミの父
●柴野香里(カオリ):タカシの妻、ナオミの母、ナオミが6歳の時に病死
●柴野直実(ナオミ):タカシとカオリの一人娘
●柴野哲朗(テツオ):タカシの父、ナオミの祖父
●柴野辰子(タツコ):タカシの母、ナオミの祖母
●宮田周作(シュウサク):カオリの父、ナオミの祖父、ナオミが14歳の時に病死
●宮田志穂(シホ):カオリの母、ナオミの祖母
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次回もお楽しみに!