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脱会説得の宗教的背景 24
創世記の聖句解釈を巡る難問

教理研究院院長
太田 朝久

 YouTubeチャンネル「我々の視点」で公開中のシリーズ、「脱会説得の宗教的背景/世界平和を構築する『統一原理』~比較宗教の観点から~」のテキスト版を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。
 講師は、世界平和統一家庭連合教理研究院院長の太田朝久(ともひさ)氏です。動画版も併せてご活用ください。

創世記の難問に対する統一原理の明確な答えとは?
 ところでキリスト教は、創世記112節をどう解釈するのかという聖書解釈を巡って、“難問”を抱えています。

 創世記112節に「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」とありますが、これを伝統的には神の“無からの創造”だと主張してきました。

 しかしこの聖句には、他の翻訳や解釈が存在することを、カレン・アームストロングや松田明三郎(まつだ・あけみろう)が指摘しています。
 聖書学者の松田明三郎は、次のように述べています。

 「【地は形なく、むなしく…】『地』とはここでは宇宙がこれから形づくられる資材である。それはいまだ秩序が与えられていない原始の混沌の状態であった。……【やみが淵のおもてにあり】『やみ』も『淵』も神が創造したということはこれまでには書かれていない。それ故に、神は無から天地を創造したのではなく、それ以前に原始の混沌が存在していたと解釈するものもある」(『旧約聖書略解』日本基督教団出版局、5ページ)

 また、カレン・アームストロングも次のように述べています。

 「『創世記』の最初の文はしばしば次のように翻訳されてきた。『初めに神は天と地を創造された』と。この伝統的な翻訳は、神がわれわれの世界を無から創造したという教義――それは今ではすべての唯一神教の信徒たちの教義なのだが――を明瞭に述べているように思われる。つまり、原初には神のほかにはいかなる物質も存在していなかったという教義である。だがエヴェレット・フォックス(注:ヘブライ語の聖書学者)は、この文は次のようにも訳せることを指摘している。

 神による天地創造の始めに、
――その時、地は荒涼たる荒れ地(トーフー・ヴァー・ヴォーフー)であって、
 暗闇が大洋を覆い、大水の上に神の息が舞っていたのだが――、
 神は言った、『光あれ!』と。
 『新改訂標準版』(NRSV)も、この節のこうした解釈を採択している。しかし、この読み方は、創造の過程についての非常に違った見解を提示している。神は世界を無から作ったのではない。荒涼たるカオスと原初の海がすでに存在していたのであり、神は『トーフー・ヴァー・ヴォーフー』に秩序を押し付けたにすぎないからである。この制御しにくい物質が宇宙の原料として用いられたのだ。どちらの読み方が正しいのかという問題は、結局解決されえないのかもしれない」(『楽園を遠く離れて』柏書房、2223ページ)

 松田明三郎やカレン・アームストロングの指摘する、この創世記の「聖書解釈」(翻訳)の問題に対し、キリスト教はどう答えたらいいのか、明確な答えがありません。
 神を「性相」(思惟の思惟)のみの存在と考え、神が“無(Nothing)”から全てを創造したとする非科学的な「唯心論」を主張するためです。故に「唯物論」を克服することができません。
 創世記112節の「混沌」とした何か(原料)が“原初にあった”とする聖書の解釈に対し、それを頭ごなしに否定してしまわなければならないのがキリスト教の立場なのです。

 しかし「統一原理」には明確な答えがあります。
 統一原理は、神を「本性相と本形状の二性性相の中和的主体」(『原理講論』47ページ)であると捉え、“精神の原因”も“物質の原因”も、共に神の中にあったと考えるからです。
 これは「唯心論」でも「唯物論」でもなく、両者を和合統一した「唯一論」という考え方です。すなわち、神はご自身の「本形状」(前エネルギー。注:これはカオスの原初の海=トーフー・ヴァー・ヴォーフーと言える)を用いて天地創造をしていかれたというのです。
 これを「創造の二段構造」と呼んでいます。

(続く)

※動画版「脱会説得の宗教的背景 第6回『唯物論』と『唯心論』の和合統一〈その1〉」はこちらから