2024.01.23 22:00
脱会説得の宗教的背景 23
神の創造はいかになされたのか
教理研究院院長
太田 朝久
YouTubeチャンネル「我々の視点」で公開中のシリーズ、「脱会説得の宗教的背景/世界平和を構築する『統一原理』~比較宗教の観点から~」のテキスト版を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。
講師は、世界平和統一家庭連合教理研究院院長の太田朝久(ともひさ)氏です。動画版も併せてご活用ください。
キリスト教の“創造の概念”の限界性
さてキリスト教は、「唯心論」を主張します。あくまでも「精神」が先で、そこから「物質」が生じたとします。
ただし、この唯心論は、神による無からの創造を意味します。
「無」とはNothingという意味の無であり、何もないところから物質が発生したと考えます。
神が全能性を持って、全てを奇跡的に創造したというのです。被造世界が存在する前は、神は“思惟の思惟(精神)”として存在(=質料を有しない神)しておられ、それを統一原理的に表現すれば、「性相一元論」がキリスト教です。
キリスト教は、神が無から被造物を創造したと主張することで、神の偉大性(=奇跡)を強調しようとします。
よく牧師たちは「神にはなんでもできない事はない」(マタイ伝19・26)という聖書の言葉を引用し、再臨主が「天の雲に乗って来る」ことも、その際に信者が「空中携挙」(Ⅰテサロニケ4・17)、つまり空中に引き上げられることも、「神にはなんでもできない事はない」からだと主張します。「天地創造」も同じだというのです。
しかし、この神の“奇跡的創造”に対して、疑問を抱かざるを得ません。
① 自然界を構成している「質料」(素材)は、いったいどこから来たのか。(非科学的である)
➁ 結果として生じた自然界に「法則性」があるのに、神は創造に際しては、なぜ「奇跡」という法則性を無視する方法を取られたのか、一貫性に欠けている。
③ 創造において、超自然的な奇跡を用いられたなら、“救いの摂理”において、なぜ奇跡的な救済方法を採られないのか。そうすれば、救済も簡単である。ところが「創世記」を読むと、人間を主管することができない“神の姿”が描かれている。これは“謎”ともいえる疑問点である。
「神にはなんでもできない事はない」の真意
イギリスの宗教学者カレン・アームストロングは『楽園を遠く離れて』(柏書房)で、創世記に描かれた神の姿について、「全能の神はもはや自分が創造したものをコントロールできない」(48ページ)と述べて、救済摂理や人間を主管することに対し、神は“無能”ではないかという疑問を投げかけています(その他、35、50、74ページなどを参照)。
また、カトリック司祭ピーター・ミルワードも、創世記に描かれた神に対し、「人間のためにしたことがことごとく悪の不思議な力に邪魔されているのを見て、神はほとんどお手あげなのではないかと思える。神は人間が破滅につぐ破滅に落ちていくのをつぶさに見ていながら、それに対してなにもできない」(『旧約聖書の智慧』講談社、42ページ)と、神の救いの限界について述べています。
従って、牧師たちが強調する「神にはなんでもできない事はない」という聖書の言葉は、熟考してみる必要があるでしょう。
神が人間の“自由意志”を一方的に無視したり、宇宙の“科学的法則性”を完全無視したりする奇跡を意味するのではなく、神の“愛の絶対性”を述べたものと捉えるべきでしょう。
神の人間に対する“救いの摂理”に対し、人間は神の願いに従わず、人間の“救済摂理”はほとんど不可能ではないかと思われる状況があります。
それは人間に責任分担があり、その責任分担を人間が果たさないためです。
しかし愛なる神はそれでも決して諦めず、「わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる」(イザヤ46・10)と語り、人間を赦し愛し、導き続ける“愛の絶対性”の故に、「神にはなんでもできない事はない」と語っていると言えます。
事実、弟子が「だれが救われることができるのだろう」と問いかけて、それに対しイエス様が「神にはなんでもできない事はない」と答えていることからしても、この言葉は神の“愛の全能性(愛の絶対性)”を語っていると見るべきです。
神の創造を解き明かす統一原理
ところで、キリスト教が主張する“無からの創造”に対し、「統一思想」では、次のように指摘します。
長文ですが、引用します。
「アリストテレス(BC384~322)によれば、実体は形相(エイドス)と質料(ヒュレー)からなっている。形相とは……そのものたらしめている本質をいい、質料は実体を作っている素材をいう。……アリストテレスの形相と質料は、統一思想のいう性相と形状に相当する。しかし、そこには……根本的な違いがある。アリストテレスによれば、形相と質料を究極までさかのぼれば、純粋形相(第一形相)と第一質料に達する。純粋形相がすなわち神であるが、それは質料のない純粋な活動であって思惟そのものにほかならない。したがって、神は純粋な思惟、または思惟の思惟であるとされた。しかるに第一質料は、神から全く独立していた。……トマス・アクィナス(1225~1274)はアリストテレスの思想を取り入れて、同様に純粋形相または思惟の思惟を神とした。また……神は『無』から世界を創造したと主張した。神は質料をも含めた一切のものの創造主であり、しかも神には質料的要素はないのだから、『無』からの創造を主張せざるをえなかったのである。しかし無から物質が生じるという教義は、宇宙はエネルギーによって造られたとする現代科学の立場には受け入れがたい主張である」(『統一思想要綱(頭翼思想)』34~35ページ)
少し難しく感じる説明ですが、これを統一原理的に要約すれば、神は「性相(精神)」のみの存在であり、神に「形状(質料)」はないというのが、キリスト教の立場だというのです。
それ故、「無」からの創造を主張するのです。この“非科学的”な思想性をもってしては、「唯物論」を克服するのは、論理的に難しいといわざるを得ません。
キリスト教の“無からの創造”に対して、統一原理では、神はもともとあった素材=前エネルギー(神の本形状)を使って、ご自身の、その「本形状」に“限定作用”を加えながら、天地創造をされたと考えます。
(続く)
※動画版「脱会説得の宗教的背景 第6回『唯物論』と『唯心論』の和合統一〈その1〉」はこちらから