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孝情を育む 7

 『ムーンワールド』で連載された、蝶野知徳・家庭教育部長による子育てに関するエッセーを毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 孝情を育む子女教育について、どんな姿勢で向き合えばいいのかを分かりやすく解説しています。

家庭教育部長 蝶野知徳

愛の責任

罪の所在ではなく愛の所在
 父母の勉強会では、「子女は家庭教育の結実である」という立場から「子女の問題は親の責任」として表現されることがあります。この表現は、「罪の所在」を追及する言葉ではなく、「この子女への愛はどこから来ますか?」という、子女に対する「愛の所在」を問う言葉です。子女には様々な問題が起こります。そのときに、子女を取り巻く学校の人間関係や教会の教育基準、子女に関わる教育者との相性など、環境による影響を挙げればきりがありません。それらも含めて、子女の身に起こっている全てのことは「親(私)のテーマ」として、親自身がまず感じていることがとても重要なのです。

愛の孤児
 神様は堕落した人間を救うために、ご自身は責任を全て果たされたにもかかわらず、堕落の結果に対し「私の責任」を感じながら、救援摂理歴史を涙で貫いてこられました。それを私たちは、「復帰摂理における神様の愛」として学んできました。この復帰の愛の性質を考えるとき、子女の問題を親の責任と切り離し、環境の問題として主張することは、愛の本質から離れてしまうことを意味します。子女を難しくした環境の解決も含めて、親が祈り、願い、愛で抱えていくものなのです。

 そうしなければ、子女は「誰からも責任をもたれない孤児のような状態」となってしまいます。愛の孤児です。その子女を抱える親自身に、喜びや悲しみの全てが、最後は返ってきます。それは、親が子女の愛の責任者だからです。結局、どこに原因があったとしても、親自身が私の責任として、愛の責任を感じながらいくしかないのです。

 しかし、それは、教育を親だけで全て完結しなさいという意味ではありません。父母が愛の責任をもつその立場がまずあり、周りの人たちの協力を得ながら、取り組みがなされればよいのです。

 私と神様との関係に焦点を合わせ、そこに愛着をもって生活していれば、比較対照のない世界に入ります。そこには責任転嫁の誘惑もありません。信仰基台が弱いと、横的に試されたとき、神様を見失ってしまいます。

 私自身が神様の前にどうあるべきかが決まっていれば、実体的に誰と和睦して進めていけばよいのかも、心が自然に分かるようになっています。

 神様との関係を結ぶためには、私たち父母自身が、「愛の責任」をもつことです。そこで通過する心情の中に、救援摂理の全責任をもたれた神様との関係がつながってくるのです。

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 次回は、「子女が愛を持ってくる」をお届けします。