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拉致監禁・強制改宗
後藤徹さんの闘い 11
20082月」生活が苦しくなり無一文で放り出された
(世界日報 2023/10/11

無一文で放り出される 生活苦で追い出しか
 「統一教会の間違いを検証する気がないんだったら即刻出て行け!」

 監禁部屋の荻窪フラワーホーム804号室に兄らの怒声が響き渡った。2008210日午後4時ごろのことだった。

 新潟から東京に移るときに取り上げられた財布(金)や持ち物を返さないまま家から放り出そうとする家族。後藤さんは「12年も監禁しておいて何だ! 無一文で追い出すなんて酷いじゃないか」と争い、家族と揉(も)み合いになった。

 その際、家具にぶつかるなどして手の甲や手首から出血し、着ていたセーターも脇の下の部分が破れた。

 このときの血痕が付いたトレーナーや破れたセーターには、今でも生々しい跡がそのまま残っている。

 度重なる食事制裁で体が驚くほど痩せ細り弱っていた後藤さんは、力では抵抗できなかった。取り囲んだ家族たちに担がれ、そのまま玄関から廊下に放り投げられた。「くつ、くつ」という兄の声がすると、拉致される前に履いていた革靴が投げつけられ、ドアをバタンと閉められた。

 想像を絶する超長期間にわたる監禁と暴力、食事制裁などを受けても屈せず、信仰を失わなかった後藤さん。その信念の前に、どうにも扱えなくなった家族が、とうとう音を上げて放り出したのだ。

 拉致がいきなり強引に行われたものなら、その後続いた監禁を中断して投げ出したのも、いきなりだった。後藤さんの意思や社会復帰への責任などお構いなしの一方的な行為だったが、ついに後藤さんは監禁下から解かれたのだ。

 東京・保谷市(現在の西東京市)の実家で拉致されてから、実に125カ月の月日が過ぎていた。

 世の中は大きく変わっていた。阪神大震災があった年に監禁された後藤さんが、放り出されて解放されたのは米国でバラク・オバマ氏による「チェンジ(変革)」の声が高まっていたころだった。

 この間、日本の首相は長期政権の小泉純一郎氏を含めて7人に上る。まさに、一時代以上を家族や職業的脱会屋などからの罵倒と暴力が吹き荒れる無法状態の一室で忍耐して過ごしてきたのである。

 なぜ、いきなり路頭に迷うことも構わずに放り出されたのか。

 荻窪に来た当初から、後藤家では兄しか働いていなかった。このため「マンション代や生活費などの経済的な面で、監禁を継続することがかなり苦しくなりつつあるようだった」と後藤さんは見る。

 解放される3カ月ほど前から「あんた、この部屋を維持するのにどれだけお金がかかっていると思うの」とヒステリックに迫る家族らの言葉に、逼迫(ひっぱく)感を感じたからだ。

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 次回は、「『本部まであと15分なのに』激痛が走る膝、痛む筋肉」をお届けします。