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心情開拓
心霊を育てる生活原則(137)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

10 あなたが成長するために

▲李耀翰先生

(質問9)み旨をやりながら病気を治すべきか、それとも治してからみ旨に励むべきでしょうか

 それは、本人がどうしたがるかによって、決まるものです。本人の信仰があるかによるのであって、こちらは要求してはなりません。み旨に徹しながら、自分の弱さを精神力で克服できる人と、弱いところを中心として自分の時間をもちたい人との二通りあるのです。

 み旨に徹し、公的な仕事を離れずにやる場合、あまり無理をさせてはいけません。無理をさせて、強制的にやらせると精神的に疲れてしまいますから、そういう人には、専門的に病気を治す人、全力をかけて尽くす人を一人つけてあげるとかしたほうがいいです。その人自身の精神では、闘えない場合が多いのです。一人を専門的につけ、祈祷しながら、精神的に協助しながら、その人も自分の病気だと思って治してあげることです。

 とにかく、病気は、恵まれる転換期です。しかし、なぜ病気になるのか。それは、今までの生活をそのまま繰り返しているから病気になるのです。これは当然の原則です。生活に刺激がある人は、絶対に病気にはならない! 刺激がなく、毎日同じ生活を繰り返し、それがあきてきて病気になっていくのです。そして精神的に疲れ、仕事に張り合いがなくなって、恵みも来なくなり、肉体に侵入してくるようになるのです。

 病気になるというのは、同じ基準にいて霊的に成長しないからです。肉体はどんどん年を取っていくのですが、魂が成長していないのです。献身する場合、魂を動機として献身したのです。しかし結果は、肉体の仕事しかない。だから一般の職人と同じになってしまうのです。世間の人と同じだ。

 統一教会の青年は、そういう人が多い。外的な病気は、必ず精神から始まります。それは原理です。李相軒(イ・サンホン)先生は医者でも、病気になった人を「病気は精神的に乱れているからだ。それは基準が下がったからだ。それを回復せよ」と言います。(笑い)

 だから、病気になった人は、まず悔い改めなさい。悟るべき内容があるはずです。自分の動機を探って、自分がどういう立場にあるか、その価値をもう一度探ってみるべきです。

 仕事に追われて価値を知らない人が多いのです。いくら忙しくても自分を誇るべき中心をもたなければなりません。どんな労働をしても、惨めな仕事をしても、どういう動機で今いるのか、何のために暮らしているのか、目的観を知らなければならないのです。それを誇りながら暮らすことが、霊人体の要求なのです。霊人体を育てないと力は出てこないのです。霊人体に力を与えるには、自分の価値を知ることです。それは自分の責任です。

 永遠なる自分だという内的基準をもつということは、神から愛を与えられるようになることです。み言(ことば)をどれだけ誇るか、神はその基準によって私を主管するようになるのです。

 なぜ、祈祷するのか、主管する条件となるからです。その条件がサタンが侵入できない条件となってくるのです。神様を誇りながら暮らすことです。

 イエス様は、自分が死んでも「神様、生きています」と。弟子が逃げても神様が捨ててもイエス様は、神様を捨てなかった。そうしたら、神様のほうから責任をもたざるを得なくなったのです。

 結局は、自分が自分を救うようになるのです。神様の責任ではない。自分が自分を救え! 自分から堕落したんだから。

 自分が動機を失った原因は何か。神様が私を捨てたのかと疑い始める。「自分が神様を捨てたのか」と見なくてはならないのです。自分が神様を捨てたということも知らずに、自分が迷ってしまうのです。訳が分からなくなってしまうのです。自分が価値を捨てた! だから、自分が病気になっている時にもう一度探せばいいのです。そこで探して喜べば、病気は去っていくのです。

 そういうところに、「神様は、私の神様だ」、「私は神様のものだ」という実感をするのです。「私は私でない」、「神様は生きている」と、告白するようになる。いないと思っていた神様が確かに生きていると。それを体験しないと神様は本当に生きているという実感がこないのです。

 病気で、痛く、つらい気持ちを味わった時は、イエス様のつらかった心情から、先生が一人で開拓されてきた苦労の心情を味わおうとすることです。そうすれば力がわいてきます。

 イエス様は「死んでも生きている」ということを見せてくださっています。

 いくら病気で弱いからといって、病気に支配されてはいけません。なぜならば、私たちは、「死んでもいい」と公的に供え物になっているからです。「公的な供え物になる」と覚悟してきているのです。皆の前に、栄光を見せるために来たのではありません。

 私たちは、死んでもどうでもいい人間、つまらない人間なのです。結局、信仰者というのは、自殺しそうだった最後の立場で、よみがえった人のことをいうのです。死亡線を乗り越えているのです。その時、み言に触れ、「原理」に触れたのですが、それだけでなく、それを受肉しなくてはいけないのです。もう一度受肉しなければいけない。こういう時には、こう勝利すべきだと知りながらも、それをしなかった。だから、「原理」を応用して体恤(たいじゅつ)しなければいけないのです。それが自分の情になって、失うことがないのです。そういう信仰は失わないのです。体験した情は、常に自分の心に生きているのです。

 観念的な信仰よりも、受肉した信仰を積み重ねていく人は、絶対に信仰生活で疲れないのです。絶対に疲れない! だから年は取っても、若くなるのです。魂が生き、霊人体は成長し、完成していくのです。霊人体は絶対に年を取らないのです。

 そういう信仰をしていないから、すぐ疲れが出てきて、病気になるのです。体力でもって一時的には力を与えられても、それがなくなると、訳が分からなくなってしまうのです。それをどのように指導して味わわせるか。経験した人がいなければ、全体の問題となってくるのです。

 いわば、「こういう時にはこうして、生活の中で刺激を受けるのですよ」と教えるのです。

 だれのために私は信仰しているのか。神の命令に従ってやっているのだという信仰をもてば、みな刺激を受けるようになるはずです。外的に苦労しても、苦労の中に恵みがあるはずです。苦労させないから、外的に打たれてしまうのです。

 そういう信仰路程において、信仰を味わわせようとすると、その人は自ら「原理」の生活化を知るようになってくるのです。そういう経験をさせなければなりません。そうすれば、捨てられても、けっとばしても離れなくなるのです。

 先生は、そういう人がたくさんいてほしいのです。3年くらいで、その価値を知らなければならない。つかむべきです。それを味わわせるために、3年間は苦労させるのです。3年間というものをみ言で体験したら、その人と環境は発展するようになってくるのです。

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 次回は、「生活の中での信仰基台や実体基台とは」をお届けします。


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