2024.01.01 22:00
神主義と頭翼思想 11
メシヤ思想の系譜
神主義とメシヤ思想の歴史的な経緯と関連性
ナビゲーター:稲森一郎
新しく連載がスタートする同シリーズのオリジナル記事は、1995年10月から1996年10月までの期間、『氏族教会FAX-NEWS』に連載されたものです。
文鮮明(ムン・ソンミョン)・韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁夫妻が提唱し、推進してこられた「統一運動」と、その運動理念である神主義、頭翼思想。その価値を再認識、再発見する機会としていただくために、稲森一郎氏の執筆による「神主義と頭翼思想~その理論と実践」をBlessed Lifeに再掲します(一部、編集部が加筆修正しました)。ぜひご活用ください。
神主義の理想
神主義の理想は、人間始祖アダムとエバにおいて実現されるべきものでした。しかしアダムとエバの堕落によって神主義の理想は果たされないまま、人類の罪悪歴史が始まったのです。
神主義の理想とは、結局、アダムの完成理想、言い換えれば、創造理想を中心とするアダム完成の本然の理想です。従ってこの理想を完成すべく、人類歴史はアダムの再創造というテーマを抱えて流れてきたというのが歴史の本質であり、歴史の目的であると言ってよいでしょう。
「メシヤ」思想は「生命の木」思想
堕落したアダムに対して、堕落とは関係のない、創造本然のアダムの完成理想の実体を求めて人類の歴史は流れてきました。
このようなアダムの完成実体は、聖書において「生命の木」と呼ばれるところから、人類歴史の目的は「生命の木」の実体を求めてきたところにあったと言うことができます。
旧約聖書の中に見られる「生命の木」の思想、そして同じように新約聖書の中に見られる「生命の木」の思想は、聖書が完成アダムの理想を一貫して追求していることを物語っています。
この「生命の木」こそ、別の言い方をすれば、「メシヤ」なのであり、従って「生命の木」思想はすなわち「メシヤ」思想となるのです。
旧約聖書に流れるメシヤ思想、新約聖書に流れるメシヤ思想は、生命の木の思想であり、真のアダムの思想であると言い換えたとしても、結局、それは同じ意味を表すものなのです。
再臨主はメシヤ思想の完成者
旧約時代のメシヤ思想は、初臨のイエスにおいて完成されるはずでした。しかしそれが成就されなかったので、今度は新約時代の延長路程の中で、再臨思想という形でメシヤ思想が展開していきます。
メシヤ思想の歴史的な経緯は、最初のアダム=生命の木=真のアダム(これは成就されず)、第二のアダム=イエス=生命の木=真のアダム(十字架により完成できず)、第三のアダム=再臨主=生命の木=真のアダムの3人のアダムを中心として、歴史的な展開を見たといえるのですが、最後の第三アダムの再臨成約時代において、ついに生命の木はその完成理想を成就したのです。
真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種を持ってこられる再臨の主は、生命の木の思想、真のアダムの思想、すなわちメシヤ思想を完成して人類の前に立っておられます。
新しい歴史の出発点は真のアダムの再創造から
このように見てきますと、真の愛主義としての神主義は、メシヤ思想の中に同じ理想と理念を見いだしつつ、再臨思想において歴史的な成就と完成を見るわけです。
堕落世界においていくら神主義の理想を求めたとしても、堕落世界はどこまで行っても堕落世界です。それ故、堕落世界を出発点としない絶対善の出発点から、新たな歴史は創られることになるのです。
絶対善の出発点は神そのものであり、神が遣わされる罪なき真のアダムが絶対善の出発点となるわけです。
今日まで神の苦労があったのは、この新しい歴史の出発点たる真のアダムを再創造し、真のアダムの完成をご覧になるためだったといえるでしょう。
その歴史の原点が定まらなければ、どんなことをしても新しい神の歴史の始まりは永遠に来ません。
そういうことを考えると、真のアダムというものがどれだけありがたいか、感謝しても感謝しきれない存在として感じられるのです。
神主義の理想を完成する「私」
何ものにも代えがたい存在としてメシヤが私に迫ってくる時、メシヤの中に完成した神主義=真の愛主義の理想を、そのまま私が完成していかなければならないという結論になるでしょう。
私たちはメシヤ(真の父母)と共に神主義の理想を完成しなければなりません。それが私たち一人一人の立場なのです。