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心情開拓
心霊を育てる生活原則(135)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

10 あなたが成長するために

▲李耀翰先生

(質問7)意識が集中できず、祈りに起伏があるのですが

 祈りやすい時は、何か公的に尽くした基準で、祈祷ができるのです。生活に対してふまじめな時は、祈祷ができないのです。与え、尽くすという心がない人は、祈れないのです。

 祈れる人は、悲しい人、苦労する人を自分のように思える人なのです。祈祷は自分のことではしないのです。絶対に私のために祈るのではなく、人のために祈るのです。その人の苦労を自分が痛感したその時には、それは一人の苦労だけれども、兄弟の苦痛となる。それを考えれば、神も大先生もイエス様もみな、気の毒な方であったのです。

 一人の問題が自分の問題のごとく思ったその種が、神様の苦しみにまで繁殖するから祈りができるのです。だから、涙はどういう時に出るかというと、目の前の人を愛したのちに、大先生は私たちのような人間を担当して苦痛を受けたか、神様はどれほど信じられない人間に対して摂理され、どれほど苦痛だろう。そこまで神を慰めたくなるのです。

 だから私は、「なんでもかんでも祈祷せよ」とは言わないのです。何かにぶつかった時に、「ために」暮らしたいと思っても、思うようにいかない時、祈祷せよというのです。神様が憐(あわ)れんでくださるからです。人間関係と同じで、相対基準が立たないと、祈祷しづらいのです。心を閉じていると話が通じないし、神様の心のドアを開けられる実績をもたないといけません。

 祈祷は報告なのです。これからこう暮らしたいと願うのです。自分で考えるよりも、神様がこう願うから、このように生きたいと報告するのです。いつも神に報告して委ねていくのです。すると神様は、危ない時に主管してくれるのです。

 聖書にもあるように、日曜日に礼拝に出るのが神のみ旨です。その日に行くために、日曜日には火事や戦争が起こらないように、祈祷しておけというのです。前もって報告し、お願いしておくのです。日曜日は聖日です。その日はいつも頼んでおくのです。

 私たちはみ旨を勝利しようとするのですから、常に頼んでおく。するといつも守られるのです。私は、1カ月一度の地区長会議には、大先生にお会いしているのです。その時に事故がないように、いつも祈っておく。そういう時に、いつも参加できない人がいるのです。あなた方も3年間の信仰を積んで、一生に一度の祝福の日に出席できない人がいるのです。悔しいことです。事故が起こったり、反対する両親につかまったりしてです。生活の中で、常に神に尋ねてみるのです。そばに相談して教えられる人をおいていると、神は干渉しないのです。

 一人ぼっちの所へ開拓に行った人は、いつも霊界が干渉します。大先生と共にいる人は、全然霊界のことを知らないのです。私たちの教会の食口(シック)より、他の教会の霊通者が、大先生の価値を、天の秘密をもっと知っているのです。

 兄弟を貴重に思って、苦痛を共に祈祷しなさい。主体者と自分との関係をいつも分かって、祈祷するのです。起きる時、顔を洗う時、服を着る時、自分がやると思ってはいけない。観念的ではなく、神と共に暮らしているという生活に、情的に生まれ変えさせなくてはいけません。

 最初、私たちも訓練しました。「何も知らない人々と、共に風呂に入ることを条件にしてください」。バスに乗る時も、席がない時、お父様の席を考えているとパッと他の人が立って席があくとか、道を歩く時、右側は大先生が歩いていると思うのです。それが慣れたら神と共に暮らすという実感をもつのです。家を出る時の3歩は必ず思い、御飯を食べる時の3回は必ず思い、そのうちに基準が立てば、初めは私は神のものだと思い、慣れれば自分が自分でないという実感をつかむのです。先生が御自身のことを「先生」と言われるのは、自分でないからです。自己否定ということは、大事なことなのです。

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 次回は、「悩みがあるときには」をお届けします。


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