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小説・お父さんのまなざし

徳永 誠

 父と娘の愛と成長の物語。
 誰もが幸せに生きていきたい…。だから人は誰かのために生きようとします。

4話「パパ、私はここにいるわよ」

 爽やかな風と木漏れ日に包まれた尾根道をたどる。広葉樹の落ち葉を踏みしめながら、サクサクという天然の効果音と靴底から伝わる温かな感触に私は満足していた。


 祝福を受ける前に受け取った妻の自己紹介プロフィールの趣味欄には、「登山」とあった。
 初めて会った時のぎこちない会話の中でも、「夫婦で、家族で一緒に山を歩くのが私のささやかな夢です」と、その後私の妻となるカオリは瞳を輝かせた。
 けれど、そのささやかな夢はかなうことはなかった。妻は36歳の若さでこの世を去らねばならなかったからだ。

 私はと言えば、登山ほど忌避してきたものはなかった。学生時代に何度か繰り返した膝のけがによる古傷が理由の一つではあったが、数少ない山歩きの経験の範囲で、とにかく登山といえば疲れる、しんどい、大変だというイメージしかなかったからだ。趣味欄に「登山」と記入することなど、1ミリも考えたことはなかった。

 仕事が忙しい二人にとって新婚気分を楽しむ余裕はなかったが、間もなく子宝に恵まれ、しばらくは子育てに追われた。
 妻に病が見つかった時にはすでに手遅れだった。ある日突然闘病生活を強いられた妻に、ささやかな夢をかなえる時間は残されていなかった。

 妻が亡くなって4年が過ぎた頃のことだ。娘のナオミは小学4年生になっていた。一人でできることが毎日増えていく。祖父母との同居生活にもすっかり慣れて、その分、私にもナオミにも心に少しの余裕と落ち着きが感じられるようになった。

 そんなある日の日曜の午後だった。たまたま立ち寄った近所の小さな本屋。雑誌コーナーのマガジンラックに並べられた登山雑誌の表紙の写真が目に留まった。日本の最高峰、富士山の雄大な姿だった。

 引き付けられた。
 その景色を実際に見てみたいという衝動に駆られ、思いは日の出の雲海のごとくに湧いてくる。気が付いた時には、その雑誌を手にレジの前に立っていた。

 表紙の富士山は、神奈川県の丹沢山地の南部にある、標高1,491mの塔ノ岳(とうのだけ)の頂上から撮影されたものだった。
 写真の手前に写っている案内板は十字の形をしていて、頂上に建てられた墓標のようでもあった。
 息をのむような富士の絶景と「十字架の墓標」の対比が妙に心に焼き付いた。

 なぜそんなにも引き付けられてしまうのか。雑誌を手にしながら、きっと山が呼んでいるのだ、と私は直感した。
 まさか―。
 私は山には登らない。美しい自然に触れることは嫌いではないが、山を歩くことは別もの。登山が好きか嫌いかと問われれば、きっぱりと登山は嫌いだと答えるだろう。

 その頃は在宅ベースのデスクワークで毎日が忙しく過ぎていた。もちろん健康ではありたいが、そのために時間を割こうという心の余裕はなかった。
 運動不足は認める。きっと今、山を歩いたなら、30分もしないうちにギブアップするのは間違いない。

 いつもならそこで思考は停止する。しかし不思議なものだ。頭の思いとは裏腹に、心は「山はいいよ」と語りかけてくる。

 頭は心の提案を退けようとするが、私は心の声に押し切られてしまった。
 気が付くと、日帰り登山のガイドブックを買い込み、まずは高尾山と奥多摩の三頭山(みとうさん)に登ってみることにした。理由は、「初心者にお薦めの山」だったから。
 娘を誘ってとも考えたが、だらしない父親の姿を娘に見せるわけにはいかない。まずは一人で挑戦してみることにした。

 ずっと避けてきた山登り。
 やはりどう考えても、これは「山に呼ばれた」としか思えない。

 初心者コースとはいえ、山を登ることはたやすくない。しんどいことだろう、と頭と体は嫌がる。疲れるし、膝も腰も痛む。しかし心の声は違っていた。なんだ、おまえは結構喜んでいるじゃないか、もっと山を楽しめ、「テイク・イット・イージー」となぜか英語で促してくる。

 高尾山に続いて三頭山を歩く。塔ノ岳の頂上から撮影された富士山の迫力には及ばないが、富士の展望にも恵まれ、紺碧(こんぺき)の空と豊かな緑の山並みのコントラストに、祝福された気分になる。

 「俺は晴れ男だな」と思った。

 高尾山はとにかく人が多い。
 行き交うごとに登山者たちはあいさつし合う。それも山仲間としてシンパシーを覚える瞬間だろうが、あまりに頻繁だと景色よりも人のことばかりが気になってしょうがない。
 日本語の分からない外国人も一度高尾山を歩けば、「こんにちは」という日本語の言葉を永遠に忘れることはないだろう。

 三頭山もまた、多くの人に愛されている初心者向けの人気の山だが、人と出会わず独りで歩く楽しみは十分に得られる。都心から離れた奥多摩の静けさと鳥の鳴き声を味わえるのは心地よい。

 自然の中を独り歩いていると、心と体と頭の声が入れ代わり立ち代わり聞こえてくる。
 心は「気持ちいいね」とささやき、体は「結構傾斜がきついね」と漏らし、頭は「健康のためには登山のような有酸素運動がいいんだ」と主張する。

 ふと、「夫婦で、家族で一緒に山を歩くのが私のささやかな夢」と瞳を輝かせた生前の妻の笑顔が思い浮かんだ。
 妻が生きている時に一緒に山を歩きたかったな、と私は独りつぶやいてみた。

 その時だった。

 「パパ、私はここにいるわよ」

 驚いた。
 確かにそう聞こえたのだ。
 私の体の左側が熱くなった。

 三頭山は東京都と山梨県にまたがる標高1,531mの奥多摩地域を代表する緑豊かな美しい山だ。西峰、中央峰、東峰の三つの頂上があるので「三頭山」という。
 古くは、山の神々が集まる場所とされ、「鹿妻山」と呼ばれていたという。

 聖書の言葉を思い出した。

 「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか」(詩篇 第4212節)

 妻はいつも共にいる、と信じて生きてきた。信じる教えがそうだからということだけでなく、安易に霊的な証しを求めていたからでもない。ただ妻と会いたかったからだ。魂が魂を求め、その心情の中に妻を迎えたいと望んだ。それこそが祝福の証しではないか。

 「今度は娘と山を歩こう」

 「いつか三人で塔ノ岳の頂上から雄大な富士の山容を満喫しよう」

 私は落ち葉のじゅうたんの回廊を跳ねるように下山した。
 冷めぬ妻のぬくもりと共に。


登場人物

柴野高志(タカシ):カオリの夫、ナオミの父
柴野香里(カオリ):タカシの妻、ナオミの母、ナオミが6歳の時に病死
柴野直実(ナオミ):タカシとカオリの一人娘

柴野哲朗(テツオ):タカシの父、ナオミの祖父
柴野辰子(タツコ):タカシの母、ナオミの祖母
宮田周作(シュウサク):カオリの父、ナオミの祖父、ナオミが14歳の時に病死
宮田志穂(シホ):カオリの母、ナオミの祖母

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 次回もお楽しみに!

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