2023.12.10 22:00
ダーウィニズムを超えて 36
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生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきた進化論。現代の自然科学も、神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。
そんな科学時代に新しい神観を提示し、科学の統一を目指します。
統一思想研究院 小山田秀生・監修/大谷明史・著
第三章 ドーキンスの進化論と統一思想の新創造論
(六)自然選択は「不可能の山を登る」ことができるのか
ドーキンスによれば、ダーウィン主義の核心とは、小さなランダムな遺伝的変化の中から、自然選択(自然淘汰)によってランダムでない生き残りが生じ、適応的にランダムでない方向に導かれるという理論に尽きるという(*54)。したがって、進化の原動力は自然選択である。ドーキンスは「自然選択がわれわれを創り上げた」と言う。
チンパンジーと人間、トカゲとキノコ、われわれはすべておよそこの30億年をかけて、自然淘汰として知られる過程によって進化してきた。どの種の中でも、ある個体は他の個体よりもよりよく生き残る子孫を残し、その結果、繁殖に成功したものの遺伝的因子(遺伝子)は、次の世代において、より数が多くなる。これが自然淘汰、つまり、遺伝子がランダムでなく、差をつけながら増殖してゆくことである。自然淘汰がわれわれを創りあげた(*55)。(太字は引用者)
ドーキンスは「われわれは自然選択というものを理解せねばならぬ」と言う。それではドーキンスの言う自然選択とは、いかなるものであろうか。ドーキンスは自然選択はポジティブで建設的なものであると言う。
自然淘汰はポジティブで建設的だ。彫刻家が大理石の塊から余分なところを切り捨てるのと同じことである。自然淘汰は遺伝子プールから、相互に影響し合って共適応している遺伝子の組み合わせを切り出してくるのだ。原則として利己的で、実践においては協力的な、遺伝子の組み合わせを。ダーウィン的彫刻家が彫る素材は、ひとつの種の遺伝子プールである(*56)。(太字は引用者)
自然選択は「改善」する働きであるとも言う。耳ができたのも、皮膚のある部分において、振動を感知できるようになり、それが一歩一歩改善されて耳に進化したのだと言う。
耳はどのようにしてできてきたのだろうか? 皮膚のどの部分であれ、振動している物体に接触したなら、その振動を探知できる。これは触覚というものの当然の成り行きである。自然淘汰によれば、この機能がほんのちょっとした接触振動でもとらえるくらい鋭敏になるまで少しずつ促進されるのはいともたやすいだろう。ここまで来れば、あとは自動的に、十分大きな音や十分に近い音源からの空気中を伝わる振動をとらえるくらい鋭敏な感覚になってしまうだろう。そうなると、自然淘汰は空気中を伝わる振動をとらえるための特別な器官である耳の進化に有利に働き、とらえられる音源までの距離はしだいに遠くなるだろう。そこにいつでも一歩一歩の段階を踏んで改善されていく連続的な奇跡があったであろうことを了解するのは容易である(*57)。(太字は引用者)
眼の進化の場合はどうであろうか。ぴったり合うまぶたができるとか、虹彩ができて光の量を調節するようになるとか、まつ毛が生えるとか、瞬きするようになるとか、レンズの焦点が合うようになるとか、収差が補正されるようになるなど、一歩一歩奇跡的な改善を行いながら、眼は自然選択によってできたのだろうか。
ドーキンスによれば、自然選択による進化とは、突然大きく飛躍して、大進化があっという間に生じるというのでなく、漸進的であり、しかも累積的である。さらに自然選択は累積的でありながら、そこには「少しずつ獲得したものが後戻りしないための歯止め(ラチェット)が存在する(*58)」のであり、「累積的自然淘汰による進化論こそが、われわれの知るかぎり、組織化された複雑さの存在を原理的に説明することのできる唯一の理論なのだ(*59)」という。
進化の道筋を山登りにたとえるならば、自然選択は、一見不可能にも見える山を歯止めのついている靴をはきながら、一歩一歩登ってゆき、ついには山頂まで登りつめるという。ドーキンスは言う。
『不可能の山に登る』という本で私は、この点を一つの寓話で表現した。山の一方の側は切り立った崖になっていて登ることは不可能だが、反対側は頂上までなだらかな斜面になっている。山頂には、眼や細菌の鞭毛モーターのような複雑な仕組みがおかれている。そのような複雑性が突発的に自分で組み立てられるという馬鹿げた考え方は、崖の麓から一回の跳躍で頂上まで飛び上がる、といった困難な行為に象徴される。それに対して進化は、山の裏側に回って、ゆるやかな斜面を頂上まで這い登るのである。簡単だ!(*60)
しかし、漸進的に、累積的に、一歩一歩、一段一段、登るとしても、その一段ずつを登るメカニズムは何であろうか? それに対してドーキンスは、遺伝子の相互作用に基づいた、共進化と共適応という二つのプロセスによって、自然淘汰はポジティブなものであることを示すことができると言う。すなわち遺伝子の相互作用によって一歩一歩、山を登るというのである。ドーキンスは次のように言う。
共進化——軍備拡大競争や、異なる遺伝子プールに属する遺伝子の相互的な進化など——は、自然淘汰が全くのネガティブな過程だと思っている疑い深い人々に対するひとつの答えとなろう。もうひとつの答えは共適応、すなわち同じ遺伝子プール内にある遺伝子の相互的な進化だ。……これまで見てきたように、遺伝子レベルにおいて、淘汰はうまく調和する組み合わせを作りあげる。だが淘汰は全体の組み合わせをまるごと選んでいるのではない。他の部分の影響を受けつつ遺伝子プール内に存在する、部分的な細かい組み合わせを取りあげていくだけだ(*61)。(太字は引用者)
このようなドーキンスの主張に対して統一思想の見解を述べる。ドーキンスのいう「累積的自然淘汰による進化」に対して、統一思想は「創造力による段階的創造」を提示する。漸進的に一段一段と登っていくという点では、ドーキンスの進化論と統一思想は同じである。しかし自然淘汰には上昇する力はなく、ただ上昇したものを選択するだけである。たとえ小さな一段であっても、登るためにはデザインを伴った創造的な力が必要なのである。
ドーキンスは遺伝子の相互作用——別々の体に宿る遺伝子間の相互作用、または個体の中の遺伝子のプール内での相互作用——によって、前進的に進化していくという。ドーキンスは目的というものを認めない。したがって目的のない、遺伝子相互の相互作用によって進化するというのである。これは目的のない、物質と物質の相互作用によって、事物は発展するという唯物弁証法と同じ発想である。
今日、目的を排して、相互作用によって発展するとか、新しい機能や性質が生じるという思考が、科学の世界に蔓延(まんえん)している。ニューロンの相互作用によって意識が生じるという脳科学者もそうである。しかし、目的もない、単なる相互作用によって発展するというのは、真なる科学的な主張とは言えない。相互作用といえば何でも出てくるかのようであり、それはまるで「相互作用信仰」のようなものである。
統一思想の観点から言えば、目的を中心とした、デザイン(設計図)を伴った相対的要素の円満な授受作用によって発生し、発展するのである。ニワトリの卵には、ひよこになるという目的とデザインがあり、胚(はい)と卵黄・卵白が円満な授受作用を行うことによって、卵が孵化(ふか)してひよこが生まれるのである。リンゴの種にはリンゴの果実を実らせるという目的とデザインがあり、胚と胚乳が円満な授受作用を行うことによって、種は芽を出し、木に成長し、リンゴの果実を実らせるのである。
さらに、相互作用によって何かが生じるという場合、相互作用を行う素子の背後に場(フィールド)がなくてはならない。いくら半導体の複雑な回路があったとしても、電波が作用していなければ、ラジオから音は聞こえず、テレビから画像は出ない。宇宙においては、潜在的なエネルギーに満ちた場があってこそ、粒子に質量が生じ、粒子と粒子の相互作用を通じて、弱い力、強い力、電磁力、重力という四つの力が生じている。同様に生物の場合、生命の場(ライフ・フィールド)があってこそ、相互作用を通じて、生命が生じるのである。単なる相互作用によって発展するとか、新しい機能が生じるということはありえないのである。
ドーキンスは「自然淘汰は、川と同じように、とりあえず利用できる道筋のうちで最も抵抗の小さい道筋を次々とたどりながら、盲目的にその道を改良していく(*62)」と言うが、目的もなく、デザインもない、盲目的な作用によって、進化(発展)していくというのは、独断にすぎない。
ドーキンスが強調する、自然選択による進化は一つの哲学(解釈)にすぎない。それはドーキンスが「累積的自然淘汰による進化論こそが、われわれの知るかぎり、組織化された複雑さの存在を原理的に説明することのできる唯一の理論なのだ。たとえ証拠が有利でなかったとしても、なおかつそれは手に入れることのできる最上の理論であろう!(*63)」と、自ら認めているとおりである。しかし、それは唯物弁証法という、ゆがんだ哲学を生物に適用した誤った解釈なのである。
次に「不可能の山を登る」というドーキンスの主張に対する統一思想の見解を述べる。
聖書の創世記には、エデンの園の中央に生命(いのち)の木と善悪を知る木があったと書かれている。生命の木は創造理想を完成した男性(アダム)を象徴し、善悪を知る木は創造理想を完成した女性(エバ)を象徴していた。神は天地創造に先立って、まず創造のシナリオ(構想)を描かれた。そのとき、人間(アダム、エバ)の構想が最初に立てられた。そして人間の構想を標本として、それを次第に捨象、変形しながら、高級な動物から低級な動物、高級な植物から低級な植物を構想し、ついで天体、原子、素粒子、光を構想されたのである。したがって、人間を頂点とする「創造理想の山を下りる」というようにして、天地創造の構想がなされたのである。人間を中心としてイデアの世界を見たプラトンも「イデアの山を下りる」というようにして、世界の本質を見つめたのであった。
次に、そのような天地創造の構想、シナリオに基づいて、被造世界の創造がなされた。光に象徴されるビッグバンから始まって宇宙が形成され、その中で特別な惑星である地球が生まれた。やがて地球上に単細胞の生物から始まって次第に高級な生物が登場し、最後に人間が誕生したのである。したがって「創造理想の山を登る」というようにして、創造がなされたのである。
ドーキンスは自然選択による進化において、進化的変化のためには自己複製子(遺伝子)の消去や置換が必要であると言う。
ある量の進化的変化を組み立てるには、ある最小数の淘汰可能な自己複製子の消去が必要であるということになる。淘汰され消去される自己複製子が遺伝子であろうと種であろうと、単純な進化的変化はほんの少数の自己複製子の置換しか要求しない。しかしながら、一つの複雑な適応が進化するためには多数の自己複製子の置換が必要である(*64)。
人間の構想を変形、捨象しながら、生物を構想したのであるから、進化(実は創造)においては、遺伝子の変形(消去、置換)のみならず、捨象の逆プロセスとして、新たな遺伝子の注入があったと見るべきである。その場合、新たな遺伝子は、すでに初期段階の生物において、その機能が発現しないまま、準備されていることもありうるのである。
闘争すればするほど、発展ではなく後退し、破滅していく。それは唯物弁証法に基づいた共産主義の崩壊が実証したことである。現存する共産主義国である中国においても、「闘争によって発展する」という階級闘争理論は、すでに顧みられないものとなっている。何の目的もなく、何のデザインもなく、利己的遺伝子が相互作用を行いながら進化していくというドーキンスの主導する進化論は、唯物弁証法が輝きを失ったように、やがてその輝きを失っていくことであろう。
*54 リチャード・ドーキンス、垂水雄二訳『悪魔に仕える牧師』早川書房、2004年、147頁。
*55 リチャード・ドーキンス、日高敏雄他訳『利己的な遺伝子』紀伊国屋書店、2006年。
*56 リチャード・ドーキンス、福岡伸一訳『虹の解体』早川書房、2001年、307頁。
*57 リチャード・ドーキンス、中嶋康裕他訳、日高敏雄監修『盲目の時計職人』早川書房、2004年、157~58頁。
*58 リチャード・ドーキンス『悪魔に仕える牧師』373頁。
*59 リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人』501頁。
*60 リチャード・ドーキンス、垂水雄二訳『神は妄想である』早川書房、2007年、182頁。
*61 リチャード・ドーキンス『虹の解体』306頁。
*62 リチャード・ドーキンス、日高敏雄他訳『延長された表現型』紀伊国屋書店、1987年、99頁。
*63 リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人』501頁。
*64 リチャード・ドーキンス『延長された表現型』207頁。
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次回は、「自然選択は創造主か」をお届けします。