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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(133)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
九、天情と人情

▲金元弼先生

先生のお母様の愛

 韓国の38度線の南側がソウルとしますと、平壌(ピョンヤン)は北側で、この北の方に先生の故郷、定州(チョンヂュ)があります。興南(フンナム)は、半島の東の方です。

 先生が刑務所にいらっしゃった時、御家族、親戚のすべての人たちは、北のほうにいらっしゃいました。先生のお母様は、興南から400キロほど離れた所に住んでいらっしゃったのです。最も先生のことを心配されたのは、お母様でした。

 故郷からお母様が訪ねてこられました。そして先生との面会を終えて帰る途中、先生のお世話をしておられた玉(オㇰ)おばあさんの家で、私は初めてお母様にお会いすることができました。その当時、韓国動乱が始まって人々は全部疎開し、玉おばあさんと私だけが残って、日曜日には、玉おばあさんの家で二人で礼拝をしていました。その時、お母様は私に向かって、「学生の時から苦労しているのを見ると、母の心として、たまりかねます。今度帰ってきたなら、これからは、私のそばから離さないようにしましょう。私が守りたい」と話されました。

 先生は学生の時から、罪なくしてたびたび牢屋で苦しまれるということを経験されたので、お母様としては絶対に自分のそばから離したくないという心が起こるのも、当然なことと思います。お母様は、兄弟の中でも、特に先生を信頼していました。また、愛していらっしゃいました。先生が終戦前から官憲に捕らえられて、苦しまれたということをよく知っていらっしゃいました。

 今度も、先生がこういうことになって苦しんでいるということを考えて、年を取っている身ですが、乗りにくい汽車に乗って、400キロも遠い興南の地まで訪ねてこられたのでした。それゆえに、帰る時には泣きながら家まで帰っていったそうです。

 そして家に帰ると、「私はもう、息子を訪ねない。また、何も持って行かない」と言われたそうです。というのは、お母様が真心を尽くして持っていった物を、先生は御自分では食べられないで、他の人に分けてあげたからです。それで、「心が痛くて痛くてなりません。持っていっても、他の人に全部あげてしまうから」というのです。寂しい心に耐えきれなかったのです。ですから、再び先生の所へは行かないと言うのでした。しかし、お母様は次の機会を準備して、先生の所を訪ねたのでした。

 お母様の御家庭は非常に大きく、また農家でしたので、農作業の面倒も直接見なければならないというように、いろいろな仕事に携わっていました。先生のお父様は、口数が少なく非常にまじめで、一つのことを始めたら終わりまでなさるお方でした。村の人とは、そんなに交際することはない様子で、家のことすべては、お母様がやっておられたようです。そういう中でも、愛する子供のことを考えて、差し入れのためにいろいろな食べ物などを準備なさいました。先生のために何カ月もかけて食べ物やら服を準備して、先生の所を訪ねたのですから、お母様の心は、先生だけが食べてほしいということであって、それが自然だと思います。お母様は、先生を本当に愛していらっしゃいました。

 19458月に、私たちの国は解放されたのですが、それ以前、先生は日本で勉強していらっしゃり、戦争のために故郷へ帰ることになりました。ずっとさかのぼりますけれども、先生は438月に短縮卒業され、韓国に帰る前に、何日の何時に船で帰る、という電報を打ちました。ところが韓国に向かうその船(崑崙〈こんろん〉丸)は、途中で沈没して、乗客は全員亡くなったのです。

 そこでお母様は、電報に書かれていた先生の乗る予定の船が沈没したというニュースを聞いて、先生の安否を気遣って気が狂わんばかりになり、確かな情報を得るために、そのまま履物も履かずに定州邑の中心街まで8キロメートルの道のりを走っていきました。足の裏に太いとげが刺さったことにも気づかないで、魂が抜けたように先生の名前ばかりを呼ばれたそうです。

 先生は、この世を救わなければならないという神のお告げのことや、どういう道を歩んでいるのかを、お母様にも御兄弟にも全然話していらっしゃいませんでした。

 では、その時、先生はその船に乗ったのでしょうか、乗っていなかったのでしょうか。それについてお話しします。

 先生は、その船で出発するつもりで電報を打って、その日に埠頭に出掛けたのですけれども、途中で足が地にくっついて動かなくなったのです。行こうとしたら足がくっついて、なかなか行けないので、「何か事が起きる」と思い、その日のスケジュールを変えたのでした。先生も、その船が沈没するとは、気がついていらっしゃいませんでした。ところがお母様は、それを知らずに、とても切ない思いをされたのでした。

 その上、さらにお母様が心に痛みを感じたのは、面会の時のお母様に対する先生の言葉でした。子供がいくら成長したといっても、母親の目から見れば、いつも幼い子供のように考えるのが通念です。子供がおじいさんになっても、外に出掛ける時には、そのお父さんは、「体に気をつけて」と言うのが親の心です。

 そこで、先生の囚人服、散髪された様子、自由のない姿、惨めそうな様子を眺める時に、お母様は最初から涙を流さざるを得なかったのです。監視する人がいて、自由に話すこともできない環境で話すのですから、涙をこらえきれないというのも当然であると思います。

 ところが、お母様が泣かれるのが、先生には気にかかったのでした。本当に愛しているお母様が泣いている姿、先生に面会するために田舎のおばあさんが、忙しい中をやって来たのです。そして、今までの過去のことが連想された……。先生にしても、どんなに心が痛かったことでしょうか。

 我が子が苦しんでいることに、お母様がただ肉親の情で涙を流すのを、先生はお喜びになりませんでした。先生としてはお母様に、「我が子はほかの人とは違うのだ。神と全世界の人のために立派に働き、牢屋の中でも、このように苦労をする私の息子は、本当に立派である。元気でいるのが素晴らしい。勝利して無事に行ってほしい」と、そのように思ってほしかったのです。そのような涙なら、その涙は受け入れるというのです。 先生は、お母様が一、二度面会に行っても、故郷の親戚、あるいは父母に対しては、一言も安否を気遣うお話はされず、信仰によって結ばれた食口(シック)たちのことを、いつも心配してくださったのです。

 それで、はるばる忙しい中を訪ねてきて、泣いているお母様に対して、先生は「息子が苦労しているのをかわいそうに思って泣くのなら、早くお帰りになってください。そういう涙を見せるならば、再びここを訪ねないでください」と、きっぱりとお話ししたのでした。面会の時間が限られており、時間になると厳しく、別れなければならないのでした。お母様としては、話したいことがたくさんあったのでしょうけれども、涙が先立ち、いつの間にか、話したいことも話せないで帰るようになりました。

 本当に、人情の厚いお母様の後ろ姿を眺める先生の心には、どのようにしながら家に帰っていくのだろうか、家ではどんな心でいるのだろうか、とお母様に対する情が、いつもいつも誰よりもあったのでした。

 このようにお母様は、我が子が正しく、人のために善いことをしているということを御存じでしたけれども、牢屋の生活をするたびごとに、内心、大きな悩みと心の苦しみを受けたのでした。

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 次回は、「人情と天情、自己否定」をお届けします。


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