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神主義と頭翼思想 5
「私はどのようにして神を信じたのか」

ナビゲーター:稲森一郎

 新しく連載がスタートする同シリーズのオリジナル記事は、1995年10月から1996年10月までの期間、『氏族教会FAX-NEWS』に連載されたものです。
 文鮮明(ムン・ソンミョン)・韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁夫妻が提唱し、推進してこられた「統一運動」と、その運動理念である神主義、頭翼思想。その価値を再認識、再発見する機会としていただくために、稲森一郎氏の執筆による「神主義と頭翼思想~その理論と実践」をBlessed Lifeに再掲します(一部、編集部が加筆修正しました)。ぜひご活用ください。

宗教心への目覚め
 今回は、私がどのようにして神を信じるに至ったかについて証ししてみようと思います。

 私の家は浄土真宗(西本願寺系)の信仰を持つ家庭でしたが、私個人としては、それを強く信仰していたというわけではありませんでした。

 ただ大学に入る18歳の時までに、私を宗教へと導く何らかの出来事があったとすれば、それは高校時代に、「人間は人間を真に愛し得るだろうか」という疑念に深くとらわれたことでした。

 千葉大学入学当時、私の下宿先の家主である老夫婦は日本基督教団に所属するクリスチャンでした。私はその夫婦から「自分たちの通う教会へ行ってみないか」と、それとなく勧められたものでした。

 その頃、私は高神覚昇氏が著した『般若心経講義』なる本を一生懸命読み、氏の一流の説得力のある啓蒙(けいもう)の筆致にいざなわれて、宗教的情操、すなわち宗教に対する肯定的感情が芽吹いていったのを覚えています。

 しかし70年安保闘争に向かって左翼活動が一段と激しさを増していた当時、私を襲った思想的攻撃は、学友によってもたらされた2冊の本から始まりました。

 一つは『空想から科学へ』(エンゲルス著)、もう一つは『共産党宣言』(マルクス、エンゲルス著)です。
 この2冊は無神論共産主義への、また階級闘争による革命への信奉と参加を呼びかけた扇動的思想書で、その友人とはしばしば論争を展開することとなりました。

創造の神を認める
 そんな中で、「エホバの証人」と呼ばれるものみの塔の人が、彼らの出版物を通して聖書を学んでみるよう勧めてきました。

 天地創造の唯一絶対なる神を私が信ずるに至ったのは、全くもってものみの塔のおかげであり、その点において彼らの教団は私にとって忘れることのできないものとなりました。
 聖書に対して目が開かれたのもまた、ものみの塔のおかげでした。

 しかし一人の大学の先輩が私に統一原理を伝えた時、ものみの塔の教理に対するいくつかの疑問、あるいは聖書に対するいろいろな疑問を抱えていた私の心は大きな感動に包まれ、私の理性は統一原理における宗教と科学の統一性に非常な満足と納得を覚えたのです。

 ものみの塔において、宇宙創造の神を認めざるを得なかった理論的根拠は、原因がなければ結果はないという因果律を認めることが理にかなっていると考えたからでした。
 その観点は、統一原理を学ぶ中でさらに補強され、確固たるものとなりました。

 何もなければ、何も出てこない、何かがあったから何かが出てきたのだという、一見何でもないような単純な論理の中に、創造神の存在が見えてきたのです。

心情の神を知り、全ての疑問が氷解
 統一原理を学んで、私が感動したいくつかの決定的な事柄は、人間の責任分担の問題と堕落論の内容、それに神は人間以上に深い喜怒哀楽の情を持たれた心情の神であるということでした。

 ものみの塔では解決されなかった疑問点が一気に氷解していくのを覚えて、打ち震えるような感動に包まれたのを思い出します。

 愛の神、心情の神が分からなければ、一教派のみを救うような教派的独善性と排他性に立った狭量的な神を、平気で信ずる結果となってしまうのです。
 また、人間の責任分担の理論が分からなければ、神の一方的な全知全能を主張する神秘的な神学体系が著されることになるのです。

 最も決定的な統一原理の内容はといえば、それは私にとって堕落論の内容でした。
 高校時代、私が悩み、それ以来、ずっと私を悩ませ続けた問題、すなわち、人は人を真に愛し得るかという難問が、ルーシェルの偽りの愛の誘惑による人間始祖の堕落という内容を通して、見事に解けたのです。驚くべきことでした。

 以来、統一原理の理念は私の人生を支えてきました。
 今日まで導いてくださった神に心から感謝するのみです。