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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(131)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
九、天情と人情

▲金元弼先生

私は神の代身者である

 牢屋では、二つのことが禁止されていました。たばこを吸うことと、起きる時間と寝る時間を絶対に守ることです。どこの国でも、それは同じだと思います。たばこを吸うためには火が必要です。もし牢屋に火をつけたら、囚人が全部逃げていきますから、火に一番気をつけるのです。また、脱出するためには、起床時間前に起きて工作しなければならないので、時間を厳守させるのです。そういう中にあって、先生はいつも刑務所の人たちの目を避けながら、朝1時間早く起きて、それを怠らなかったというのです。

 先生が朝早く起きるというのは、非常に大事なことでした。それを見つけられたら、大変なことになります。ある人は、発見されて、独房に入れられたこともありました。先生にとって、身体を保つということにも意味がありますけれども、先生の体は神の実体として人類を救わなければならない身であると考えられたのです。その時、この身は自分個人の身ではなく天の身であると考え、この身を大事にし、清らかにしなければならないという内的意義があったことを、私たちは考えなければならないと思います。

 先生のいらっしゃった牢屋の中には、いつも20人の人たちが収容されていました。牢屋の中で、空気の流通の良い場所もありますけれども、先生はそういう所には行かず、手洗いのそばに座席を決められたのです。というのは、空気の流通の良い所は窓のある所で、多くの人たちが体の上をまたいで越えていくからです。天の身を、これらの人たちにさらしたくない、触れさせたくない、清く保とうと思われたのでした。外的に見れば汚い所ですが、そういう所を自ら進んで選び、そこで2年半という長い間、生活されたというのです。

 先生御自身は、天宙復帰の責任を果たさなければならない、言わば天の代身者であるという、その自覚を忘れなかったのです。神のみ旨を成就しなければならない、神の代身者としての身なのでした。

 この身は私の体ではない、神の体であるから、その体は神殿、聖殿であるというのです。ですから先生は、御自身が神の代身者であることを悟ったので、今一緒に生活している人たちと区別しなければならない身であるとして、対処されたのです。

 窓際に眠る位置を定めてしまうと、数多くの人が出たり入ったりして、先生の体を越えて通るというのです。神のみ旨に添わない不義の人々に、そういう先生の体を越えさせるのを許すことはできないのでした。ですからくさい場所であっても、人々は先生の体を越えないのですから、そこを眠る場所に定められたのでした。

 こういうお話は、皆様の心の中に、そう強く響かないかもしれませんけれども、神のみ旨を成就する中で、皆様は大山という人であれば、大山その人ではないのです。神の代身者であり、先生の分身であるのです。ですから皆様は、どこへ行っても、「私は神の分身である。代身者である」というプライド、あるいは自覚をもっているなら、不義を働くことはできないのです。普通の人々と同じような生活はできないというのです。ですから、先生の刑務所での生活を見て学ぶべきは、平素から「私は神の代身者である」ということを守らねばならない私である、ということです。

 先生は不義なる人と一緒に暮らしても、くさい所であっても、その身は汚さないというのです。心情は言うまでもなく、身さえ汚れることを許さないというのです。共産党は、ベッドから起き上がっただけで、「体を動かした」ととがめます。それで先生は、ベッドから起きないで「私の誓い」の三番目にある「父母の心情、僕の体で、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流す」ということを、ベッドに横になったままで、足を動かしながら誓いをされたと伺っています。

 ですから一つの場所ばかりでなく、どういう所でも、どんな形でも、お祈りはできるのです。皆さん、聖地は教会の中ではなく、すべて外にあるではないですか。神の心情でお祈りする所は、どこでも聖地になり得るのです。

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 次回は、「先生のような生活をするには」をお届けします。


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