2023.11.10 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(129)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
10 あなたが成長するために
(質問1)信仰生活の味わいを知るには
信仰者は、まず自分を知ることから始めるのです。そして今までの私はどれだけ方向転換したか、今までの自分をどれだけ納得して信仰し始めたかという、基本的な出発の動機を明らかにしなければならないのです。
信仰が長いからといって、最初の動機と違った自分となってはいけないのです。しかし、その動機自体も成長するので、新しいみ言(ことば)によって与えられた動機によって、常に新しい自分となっていかなくてはなりません。
信仰者はだれでも、心配しながら出発した人はいないのです。だれでも喜んで出発するのです。嫌なのに、教会に来なければならないからといって、強制的に出発させられた人は一人もいないはずです。み言によって出発した動機は、自分もこの言葉によって「復帰可能性あり」と願ったのが一つの信仰の動機だったのでしょう。
アルファとオメガが同じでないと、それは途中で何かに染まった者であるというのです。み言による最初の動機がアルファです。そのアルファがオメガの今日と同じでないと、それは本来の自分と関係なくなってくるのです。そして、次第に縦的に神と自分の関係を体験したがるのは、情の働き出す当然の方向です。まず、主体者との関係を結ばなければならないからです。絶対なる神と自分との関係を結ばなくてはなりません。
生活の中で、自分は神様と共に暮らしているのかいないのか。神がどのように自分と関係を結ぼうとしているのかが分からなくてはいけない。カインとアベルの関係、これは神と自分との関係を結ぶために、アベルを仲保者として立てたものです。洗礼ヨハネとイエス様の関係でも同じです。イエス様を通ずることによって、洗礼ヨハネと神様との間に絶対的な関係を結ぼうとされたのです。しかし、そこにおいて洗礼ヨハネは失われてしまった。
だから、私たちの失敗は、神を知りそうなところへ行って、よく失敗するのです。関係を結ぶその瞬間に失敗して、いつでもいい気になっているのです。
神が自分と共にいるということを、どういう時に味わっていますか。神を私の主体者として、はっきりさせておかないと、私たちも主管されないままでいるのです。目的観に立たないままでは、生活の中で価値を味わえないのです。
サタンも私たちと相対基準を結ぼうとして、神も私たちを所有しようとするのです。その所有される責任、その基準というものは、実に私たちの中にあるのです。神に所有されるべき信仰と心情で暮らすということ、換言すれば、信仰基台と実体基台を立てるということは、大切なことです。信仰と心情は一つでしょう。主体者の立場に立つことが信仰であり、主体者から力を得る体験をすることが実体基台です。だから、信仰と心情は一体であり、信仰者には疲れがないのです。
主体者と方向が正しい人は、絶対に疑いとか力が抜けるということがありません。守るべき位置、自分の本心を中心とする位置を味わっているはずです。聖書の中には、「貧しい人たちは、さいわいだ」(ルカ六・20)とあります。また、「富んでいる人たちは、わざわいだ」(同六・24)、「今笑っている人たちは、わざわいだ」(同六・25)とあります。それは心情的に神を恋しく思う心をもつ人は主体者のものとして所有されるからです。主体者に対しての愛着心、方向を守る心が私の魂を成長させてくれるのです。
だから、今私が成長中か、止まっているかは、私が中心にどれだけ心が引かれているかによって、さらに分かってくるのです。
だから、まずそういった自分自身を知れ。今、自分は主体との関係でどういう位置に立っているか。バイオリンの弦のようにピーンと張っている人は、善悪を分別しやすいし、そこに恋しさが生まれるのです。関心あるところに成就がなされるのです。信仰とは、主体者と私との関係の妙味を味わうことなのです。
成長して相対基準に立てば、どんな場面になっても、神に主管されるようになるのです。絶対に主管されるから、神の願いを知り、そこに私というものも侵入できない。主体の立場を知れば、そこに私の悩みというものもない。怨讐(おんしゅう)もなく、試練もないのです。もしあっても、それは神と私の間をより密接にしてくれる試練だというのです。
イエス様は、十字架につけられて、神と自分との関係を失ったのではありません。それによって、もっと価値あるイエス様となられたのです。このような合理的な迫害は、私たちに価値を与えるのです。決してそれは苦労ではありません。感謝して受けるものです。それに不平を言ったり、反発する人は、そこに自分というものが入っているのです。
しかし、自分というものを主体者のものにして、主体者の願いを知ろうとする人は、自分を否定することは簡単なことなのです。
より以上価値づける、今までの何倍ももうけるのだと思えば、今までの愛着を切るのも問題ないでしょう。信仰ということは、要は、いかに自分と主体者の関係を知って生活するか、その生活の中での味わいをかみしめることなのです。
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次回は、「信仰生活のマンネリ化から脱却するには」をお届けします。