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神の沈黙と救い 51

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

終章 神が沈黙を破るとき

人間回復のために忍耐される神

 では、こんなに苦しまれながら、また人間が苦しむのに干渉されることなく、人間の自由に干渉されず、償いを要求されるのはどうしてであろう? それは、人間の「神のかたち」としての価値を保持し、回復させるためである。

 神は人間をあわれみたくないのである。「あわれむ」というのは、愛される価値がないのに愛するということである。神はそんな愛し方はされない。失った価値をすべて完全に回復した上で、その「神のかたち」である人間、メシヤと価値的に変わらない人間を愛したいのである。できれば、堕落したことも忘れたい。堕落しなかったものとして人間に対したい。そのための忍耐――それが神の沈黙として現れている。

 試練の中で苦しむ人間を奇跡をもって救うことはたやすい。しかしそのようにしたら、失った「神のかたち」としての価値を取り戻すことができるであろうか?

 この価値回復のために何万年という気の遠くなるような歳月が費やされたが、その結果、人間が「神のかたち」としての価値を取り戻し、神が人間をあわれむことなく、賛美して愛することができるようになれたとすれば、その歳月も決して無駄ではない。それに反して、中途半端に手を出せば不完全な結果しか出ない。どんなに長い時間がかかろうと、あくまでも完全なものをのみ神は求めておられるのである。そういう「神のかたち」としての人間の自由の上に、初めて神の自由もあるのだ。

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 次回は、「神が沈黙を破るとき」をお届けします。