https://www.kogensha.jp/shop/detail.php?id=4163

神の沈黙と救い 50

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

終章 神が沈黙を破るとき

孤独と狂乱の神

 人間と楽しく共演したい、交歓したいというこの神の想いは、待望のメシヤ――イエスが来臨されたときに果たして満たされたであろうか? 福音書には驚くべきことが数々記載されている。

 「祭りが終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめた」(ルカ二・4344)。

 このときイエスはまだ12歳である。それにもかかわらず、両親のこの無関心ぶりはどうであろう。イエスが自分の子でないことから不機嫌なヨセフに、マリヤがいかに遠慮しているかが見えるようである。

 「身内の者たちはこの事(群衆に話しておられる事)を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである」(マルコ三・21)。「さて、イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。……すると、イエスは彼らに答えて言われた。『わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか』」(マルコ三・3133)。

 これらの記述から、イエスが母や兄弟からも理解されず、やむなく素朴で愛に飢えている最底辺の人々を伝道しなければならなくなったという事情が見えてくる。

 「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ八・20)。

 イエスがどこへ行っても歓迎されず、いかばかり孤独であられたかが、この言葉から分かる。イエス(子)の孤独はそのまま神(父)の孤独である。「わたし(イエス)を見た者は、父を見たのである」(ヨハネ一四・9)。

 「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた。『もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである』(ルカ一九・4144)。

 「イエスは(十字架への道を行かれる時)女たちの方に振りむいて言われた、『エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい』」(ルカ二三・28)。

 イスラエル民族の不信仰のためにイエスが十字架への道を行かざるを得なくなった時、神がいかに、狂うばかりに悲しまれ、特にご自身が2000年にわたって育てたイスラエル民族が引き受けなければならない悲痛な運命のために泣いておられるかが、これらの記述から分かる。

 「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ一九・40)。

 この時、またいつの時も、神は実は沈黙しておられるのではない。石にでも叫ばせたいほどのお気持ちなのだが、それが人間には聞こえないのである。

 「時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた。そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』」(ルカ二三・4446)。

 これは神が、苦悶のあまりもはやイエスの十字架を正視し得なくなられたことを示すと思われる。神が、すべてのことに超然として心を動かされない、人間にとって絶対他者であるなどというのは、ギリシャ哲学的な神観であって、聖書の神ではない。神は人間の親である。最も身近な親である。最愛の子が苦しむのを見てどうして平気でいられるだろうか。

---

 次回は、「人間回復のために忍耐される神」をお届けします。