https://www.kogensha.jp/

神の沈黙と救い 49

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

終章 神が沈黙を破るとき

“統一演奏会”を待たれる神

 さてこれまで、神の沈黙について説明を続けてきたが、それは神に沈黙し続けていただきたいからではなく、神が沈黙を破って私たち人間と楽しく交歓していただきたいと願えばこそである。

 では一体、どういう形で神は沈黙を破られるであろうか?

 「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう」(マタイ一八・19)とあるように、神は矛盾・対立のないところ、調和のあるところにのみ働かれる。そうでなければ、一方の自由に応えることが他方の自由を抑圧することになるからである。早い話が、例えばその二人がそれぞれ自分の子だけが受験に受かることを祈ったら、神はどうしてもやりようがない。したがってそういう祈りは聞き給わない。

 人間それぞれの自由が調和のうちにあり、御心のままにと神の自由をも縛らない時、神は思う存分に語り出されるであろう。

 人間が自分の心の中にさえ矛盾をかかえているような時代には、そこに働くことはできないので、神はご自身の側にノア、アブラハムなどの義人を立て、さらには家族としてヤコブ家庭を立て、民族としてモーセを長とする出エジプトの民を立て、他はサタンに引き渡すという分立の摂理を進められた。そういう分立が時満ちて統一されるのが終末の時である。ソ連の崩壊以後、世界は大きくは統一の方向に向かっており、20世紀末に向かってますますその傾向が強まっている。

 自由な個別者としては、神はいわば何よりも雄壮であるとともに、デリケートなソリストであられる。それゆえ、人間たちの奏でるオーケストラが不調和であれば歌い出せないのである。現在の世相は調和とはほど遠いから、ほとんどは裏方に回って調和造りに奔走しておられる。その中で本当に気持ちのよく心のそろった集まりがあると、そこに顔を出される。それゆえ、表面的に見ると、沈黙しておられるように見える。しかし実は、人の心から心へと休むことなく飛び歩いて矛盾を解き、人の心を一つの方向に向けようと懸命に働いておられるのである。

 一つの方向に向けるのに、人間一人一人が向いている勝手な方向を尊重して調和させようとするなら、何億年努力しても無駄である。反対に、神にみんなが合わせるようにすべきである。そうすれば、瞬時に合う。神はグリニッチ標準時のようなもので、それに全世界の時計を合わせるようにすべきなのである。それで初めて、最高度の自由が得られる。一体、オーケストラの音合わせの時のような不協和音一つを弾く自由と、世界第一流の指揮者のタクトに合わせる自由とでは、どちらが楽しいであろうか?

 神は指揮をしながら同時に、ピアノを独奏するピアノ協奏曲のプレーヤーのようなものである。人間が完全に満足するような名曲を弾かせて、ぴったり呼吸が合ったところでなければご自分の演奏はできない。それゆえ、神の声を聞きたければ、人間は神のシナリオがどのようなものであるかを明確に知り、それに合わせる必要がある。この神のシナリオ、総譜がすなわち摂理にほかならない。(シナリオ、総譜といってしまうと、何か固定化したもののような感じなので、ちょっと不適当な比喩〈ひゆ〉かもしれない。ジャズのセッションでめいめいがアドリブを入れて楽しむという比喩のほうがいいかもしれない。)

 神は全宇宙を創造されたが、無形であられるので、そのままでは指揮をすることはできない。一つ一つの細かいパートを指揮するのは完成された個人であり、その個人すべてを統率されるのがメシヤである。神はそのメシヤ(キリスト)としてイエスを送られたが、洗礼ヨハネの離反が主要な原因となってイスラエル民族がイエスを受け入れなかったので、とうとう「統一演奏会」は開けずじまいとなった。その演奏会の代わりに、十字架の死と復活を成し遂げたイエスを主キリストと信じる者を、次の統一演奏会が開かれるまで、その待合室で待たせられている。それがクリスチャンである。イエスは再臨を約束された。それゆえ、キリスト(メシヤ)の再臨が必ずなければならないだろう。

---

 次回は、「孤独と狂乱の神」をお届けします。