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神の沈黙と救い 48

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
五 背信者ユダ

十字架は人間の不信仰による結末

 さて、こういうことであったら、これはユダに対してもいい警告となるだろう。お前がやらなくてもだれかがやるかもしれないが、だからといってお前がやるべきでない。それは大罪だという筋の通った訓戒だからだ。この時ユダは、たかが30枚の銀貨が欲しくてイエスを売ろうとしたのではあるまい。何かの原因で(たぶん女の問題で)イエスが憎かったからであろう。そういう時、ただやらないようにたしなめたところで効きめはあるまい。そこでイエスはただ、お前は私を売るつもりのようだが、私を売ることは大罪だ。そのつもりで責任の取れることをやれと、その道理を冷静に説いたもののように思われる。

 ともあれ、この論理の矛盾は、イエスの十字架がそもそも神の予定(善)であったのか、予定でなかった(悪)のかというところまで突き詰めなければ、完全な解決には至らないように思われる。ユダの不信仰だけでなく、イスラエル民族すべての不信仰のためにイエスが十字架への道を進まなければならなくなったことは確かだ。したがって、信仰することが善なら、十字架にかからないことが善、不信仰が悪なら、十字架にかかることは悪だとするのが当然の論理なのではなかろうか。

 ともかくイエスはユダに、「人の子を裏切るその人はわざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」という意味のことをいわれたはずで、「しようとしていることを、今すぐするがよい」などと悪を勧めるようなことはいわれたはずがないということだけは、これまでの論理だけでもはっきりといえるように思う。

 これで『沈黙』の、キリストがユダにいった言葉についての疑問に答えることができるのではなかろうか。

 次の「なぜあの人(キリスト)は自分を裏切る男を弟子のうちに加えられていたのだろう」という疑問に対しては、初めからユダが「裏切る」役を与えられて弟子たちの中に加えられていたわけではない。長い間イエスと暮らすうちにそういう気持ちが湧いてきたにすぎず、それが自由意志というものであって、それは神でさえ初めから予測できるような性質のものではなかったと答えておきたい。

 このようにユダは裏切るという役割を与えられて生活していたわけではないので、そのように自由意志でやったことに対しては自分で責任を取るしかなく、「ユダを最後は突き放された」と見るのも当たっていない。特に、イエスはその時点では裁判にかけられ十字架につけられたのだから、ユダの面倒を見ようとしても、それは物理的にも不可能だったわけだから。

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 次回は、「“統一演奏会”を待たれる神」をお届けします。