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神の沈黙と救い 47

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
五 背信者ユダ

福音書における論理の矛盾

 だがもしそれがハッピー・エンドであり、神が人間の自由を無視してでも全能を振るわれるのであったら、どうしてこんなにも神とキリストに従順である切支丹の司祭や百姓に迫害があったり、迫害に耐える力が限界にまで来ているのに神が沈黙しているなどということがあろうか。神がその全能をもってその迫害を押しつぶせばそれですむことなのである。神が無能のように沈黙しておられるのは、善悪のいかんにかかわらず、人間の自由をどこまでも尊重されるからである。

 ヨハネによる福音書は十字架という大団円に向かって、神の筋書き(旧約聖書の預言)どおりに演じる一群の聖徒たちの名演技として描かれているように思われる。サタンまでが助演している。これを未信者に聞かせて、それではイエスを主キリストとして認めるか、と問い得るように構成されている。しかり、アーメンと相手が答えれば、それで万事は終わる。徹頭徹尾、宿命論的であって、各自は自由意志をもっていないかのようである。

 他の福音書もやはり十字架が大団円だというように描こうとしているようである。しかし、「事実」がそこに不協和音のように入ってきて、ヨハネによる福音書のようにいさぎよくばっさりと切り捨てることができないでいる。できれば切り捨てたいのだろうが、そう書けば、うそになってしまうということで、語りたい筋書きと食い違う事実を、あくまでも事実として記述し、筋書きとの矛盾をありのままに露呈させている。それで本当はどうであったのかが分かってくる。

 例えば、マルコによる福音書には、「夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。そして、一同が席について食事をしているとき言われた、『特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている』……『十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう』(一四・1721)と書かれてある。

 すなわちここでは、一方において、「人の子(キリスト)は自分について書いてあるとおりに去っていく」という基本の筋書きを書いた上で、他方では、「しかし、人の子を裏切るその人は、生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」と、ユダの行為が自由意志に基づくものでそれは大罪であるという指摘が、両者矛盾したまま、「しかし」という接続詞で結ばれているのである。これは論理としては非常におかしい。ユダが裏切らなければ摂理の目的である十字架はない。しかし、裏切ることは大罪であるというのだから。

 これを調和した記述とするためには、事態はもはや十字架を不可避とするところまで傾いている。ユダが裏切らなくても、だれかがイエスを十字架に送るように画策するであろう。しかしそうであっても、ユダがイエスを裏切ることは、「生まれない方がよかった」と言わざるを得ないほどの大罪だ、とでも言い直すしか仕方がないように思われる。

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 次回は、「十字架は人間の不信仰による結末」をお届けします。