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神の沈黙と救い 46

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
五 背信者ユダ

十字架はハッピーエンド?

 さて、預言の成就ということで、イエスが主キリストであることを証明するという伝道方法を取ったところから、神の全知全能性ばかりが一方的に強調され、その結果人間の自由が無視されることとなった。そうして前に引用したヨハネによる福音書132130節にあるように、ユダもサタンもイエスの命令するがままに動いて、神の目的である十字架に向かって突進するという奇妙な記述となったのではなかろうか?

 ヨハネによる福音書の著者がこれで、イエスの神的威力を示そうとしたのなら、この目的は幾分果たされたといえるかもしれない。しかしこの記述が本当だとしたら、イエスの使い走りだったにすぎないユダの罪をどうして問うことができるだろうか? 強制されたことに対して罪はない。罪の前提となるものは人間の自由である。

 しかしマタイによる福音書を見ると、イエスが捕らえられた後のことについてこう書かれている。

 「そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨30枚を祭司長、長老たちに返して言った、『わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました』。しかし彼らは言った、『それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい』。そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ」(二七・35)。

 これを見れば、ユダは明らかに自分の自由意志だけでイエスを売り、そのために煩悶(はんもん)して自殺したのである。イエスに命令されて自動的に使い走りをしたのであったら、自殺はしなかったであろう。使徒行伝には別の記述があるが、それによれば、そのユダの死に方は実に悲惨なものだった。

 「彼(ユダ)は不義の報酬で、ある地所を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった」(一・18)。

 これも、どうもうっかり落ちたのでなく、自殺したことを示すもののようだが、こんな悲惨な最期を遂げたのは、ユダが自分から進んでイエスを売るという大罪を犯したためなのではなかろうか?

 それと呼応するように、ヨハネによる福音書にはゲッセマネの悲痛な祈りの記述がなく、ユダが食物を受けて闇(やみ)の中に出ていくとすぐ、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった」(一三・31)で始まる4章余に及ぶ長い喜びの説教をされたことになっている。また、エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニの絶叫の記述がなくて、代わりに「すべてが終わった」という十字架上のイエスの言葉が書かれている。つまり、ヨハネによる福音書は大っぴろげのハッピー・エンドなのである。

 ここでのイエスは、まるでうれしくてたまらないかのように描かれている。十字架は単に人の子と神の栄光を現すためにあるようであり、ユダはその至福の神曲を飾る俳優の一人であるにすぎない。

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 次回は、「福音書における論理の矛盾」をお届けします。