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神の沈黙と救い 45

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
五 背信者ユダ

つくられた十字架必然説

 なぜこのようなことになったのか? それは、十字架にかけられて刑死した者を救い主(主キリスト)だとして宣教することが、何か大変不合理なことのように見えて、非常に難しかったためのようである。特にユダヤの教養ある人々には、「木にかけられた者は神にのろわれたもの」(申命記二一・23)と律法にあることからして、受け入れにくく思われたようである。

 ユダヤ人にとってメシヤ(キリスト)とは、自分たちをローマから解放し、「ダビデの位に座して」(イザヤ九・7)永遠不滅の王国を起こす人でなければならなかった。にもかかわらず、十字架にかけられて惨めな死を遂げた人が、どうしてメシヤなのかといぶかる。

 イエスは確かにただ死なれただけでなく、その後復活され、再臨を約束されたが、復活を体験したのは限られた数の弟子たちだけであったし、再臨は未来のことで信じるより仕方のないものであった。したがって、イエスがメシヤであることを確証し、説得できるものは、旧約聖書の預言がまさにこのような形で成就したということのほかにはないように思われたのであろうと思われる。そのためか、マタイ福音書を初めとして新約聖書には、「これは◯◯◯の預言が成就したのである」として、旧約聖書が引用されていることが多い。

 しかしそれはほとんど正確には引用されていない。例えば、マタイ26節には、ベツレヘムが「決して最も小さいものではない」と預言にあるかのように書かれているが、引用箇所には、「しかしベツレヘムエフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが」(ミカ五・2)と書かれていて、全く逆の意味に書き直したことが分かる。

 また、マタイによる福音書223節には、「これは預言者たちによって、『彼はナザレ人と呼ばれるであろう』と言われたことが、成就するためである」とあるが、このような預言は旧約聖書のどこにも見当たらない。

 みなこの調子で、マタイによる福音書中、ギリシャ語聖書(七十人訳)を正確に引用してあるのは、123節と131415節の二箇所にすぎない。その他の箇所は、ヘブライ語とギリシャ語七十人訳とを自由に織り混ぜながら自分流の言葉に直して用いている。これは初めから、その引用が正確かどうかと読者が一々確かめて見はしないだろうと、横着を決め込んでいる感じである。

 ともかくこのように非常に無理をしてまで、一つ一つ預言の成就だとこじつけて書いているのは、十字架で刑死したイエスを主キリスト(メシヤ)だとユダヤ人に信じさせるのが非常に難しかったためだと思われる。

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 次回は、「十字架はハッピーエンド?」をお届けします。