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ダーウィニズムを超えて 31

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「ダーウィニズムを超えて」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきた進化論。現代の自然科学も、神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。
 そんな科学時代に新しい神観を提示し、科学の統一を目指します。

統一思想研究院 小山田秀生・監修/大谷明史・著

(光言社・刊『ダーウィニズムを超えて科学の統一をめざして』〈2018520日初版発行〉より)

第三章 ドーキンスの進化論と統一思想の新創造論

(一)遺伝子は利己的なのか

 ドーキンスは「利己的な遺伝子」が進化論の根本的原理であり、「われわれは遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械である(*7)」と言う。さらに「自然界は自己複製子(遺伝子)の戦場」であり、人間社会は「つねに非情な利己主義という遺伝子に基づいた、大変いやな社会であるにちがいない、しかし残念ながら、われわれがあることをどれほど嘆こうと、それらが真実であることに変わりないのである(*8)」と言う。

 ドーキンスは調和とか協調を本質的なものとは決して認めようとしない。遺伝子は利己的であり、個体も利己的であり、自然も利己的である。ドーキンスは言う。「利己的な群れのモデルには、協力的な相互関係が介入する余地はない。そこには利他主義はなく、個々の個体が他のすべての個体を利己的に利用することがあるだけである(*9)」。「熱帯雨林に住むあらゆる種は、その種の遺伝子プールから成っている。……森林は利己的な遺伝子たちのアナーキーな連盟である(*10)」。

 このように遺伝子は利己的であるというのが、ドーキンスの本来の基本的立場である。ところがのちに、「遺伝子は利己的なものである。と同時に、アダム・スミス的な意味で協調的なものでもある(*11)」と、協調的な面を認めるようになった。アダム・スミスの立場は、経済の発展は人間の利己心に基づくものであるが、社会全体は見えざる手によって調和がもたらされているというものである。

 ドーキンスは「遺伝子が、その持ち主である個体に利他的に振るまうように仕向けることで、自らの利己的な生存を確実なものにできる状況があるのだ(*12)」と言う。そのような状況の第一は、血縁利他主義である。血縁利他主義とは、自分の子供によくする、年長の兄姉が年下の弟妹の世話をするということであり、そうすることによって、共有している同じ遺伝子の生存を確実なものにするのだという。第二は、互恵的利他主義である。互恵的利他主義とは、「ぼくの背中を掻(か)いておくれ、そしたら、お返しに掻いてあげるから」というもので、その取り引きによって、双方の遺伝子が利益を得るという。それから派生する第三のものは、気前よく親切であるという評判を獲得することで、ダーウィン主義的な利益があるというものである。そして第四は、広告効果を得る手段としてのこれ見よがしの気前よさによるものである。しかし、このような利他的な振るまいは、あくまでも利己的な遺伝子のためのものであると主張する。ドーキンスは次のように説明している。

 生物の個体レベルでの利他主義が、個体の基礎である遺伝子の利益を最大にする手段となり得る、ということは今や周知のところだ。……遺伝子は、ある面では純粋に利己的でありながら、同時に相互協力的な同盟に参入するのだ(*13)。

 個体のからだを築きあげるという事業に際して、遺伝子は協力を惜しまない。ただし、これはアナーキーな、「どの遺伝子も自分のために」といった類の協力である(*14)。

 遺伝子のレベルでは、根本的な闘争はある。しかしお互いがお互いの環境を左右するという状況の中で、その闘争は自動的に協力や「ネットワーク」という形で表れるようになったのだ(*15)。

 結局、ドーキンスによれば、遺伝子は本来、利己的であるが、遺伝子の利己的な目的はさまざまなレベルにおける協力によって達せられるというのである。ドーキンスははじめ、「利己的な遺伝子」ということを強く打ち出していた。すなわち『遺伝子の川』(英文、1995年)では、「協調性のない争奪戦(*16)」とか、「DNAが伝えられさえすれば、その過程で誰が、あるいは何が傷つこうとかまわない(*17)」などと語っていた。しかし、『虹の解体』(英文、1998年)では、協力的な側面をもち出してきた。

 分子生物学者の福岡伸一が言うように、ドーキンスが協力的な側面をもち出した背景には、ゲノム解析の急速な進展があるようである(*18)。ゲノムという概念が明確になればなるほど、個々の遺伝子は、そこに印刷された一パラグラフにすぎないのであり、ゲノムという総体のほうが機能的な単位として強調されてくるからである。

 ドーキンスが自ら説明しているように、染色体は一冊の本(各巻)に相当し、DNAはその本に書かれた設計図または指令である。したがって遺伝子は本の中の「ページ」(または「パラグラフ」)に相当する(*19)。そうすると、一つの本の中で利己的なページ同士が争っているということになるが、それはおかしな話である。

 ところが、ドーキンスは「自らの生存をいかにして最大に保証するかを計算する知的遺伝子のメタファー(*20)」といって、「利己的な遺伝子」とはメタファーにすぎないと言い、そのような批判に対して、言い逃れる。しかし、科学ジャーナリストの垂水雄二が言うように、「利己的な遺伝子」という言葉は「遺伝子そのものが利己的な意志をもっており、自らの繁栄のために生物個体を操るというイメージを与える」のである(*21)。やはり利己的で闘争的な遺伝子というのが、ドーキンスの伝えたいメッセージであり、メタファーだというのは逃げ道にすぎないのである。

 「利己的な遺伝子」という根本原理は全くの虚構である。遺伝子は本のページ、あるいはパラグラフのようなものであって、単に本の構成要素にすぎないからである。統一思想の観点から言えば、遺伝子はDNAの構成要素としてDNAのためにあり、DNAは生物個体をつくるためにあるのである。


*7 リチャード・ドーキンス、日高敏雄他訳『利己的な遺伝子』紀伊国屋書店、2006年。
*8 同上、4頁。
*9 同上、256頁。
*10 リチャード・ドーキンス、福岡伸一訳『虹の解体』早川書房、2001年、293頁。
*11 同上、11頁。
*12 リチャード・ドーキンス、垂水雄二訳『神は妄想である』早川書房、2007年、315頁。
*13 リチャード・ドーキンス『虹の解体』282頁。
*14 同上、28889頁。
*15 同上、297頁。
*16 リチャード・ドーキンス、垂水雄二訳『遺伝子の川』草思社、1995年、177頁。
*17 同上、191頁。
*18 リチャード・ドーキンス『虹の解体』415頁、訳者あとがき。
*19 リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』31頁。
*20 リチャード・ドーキンス、日高敏雄他訳『延長された表現型』紀伊国屋書店、1987年、41頁。
*21 リチャード・ドーキンス『遺伝子の川』236頁、訳者あとがき

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 次回は、「闘争か調和か」をお届けします。


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