https://www.kogensha.jp/shop/detail.php?id=4175

神主義と頭翼思想 2
絶対神たる神を知る➁

ナビゲーター:稲森一郎

 新しく連載がスタートする同シリーズのオリジナル記事は、1995年10月から1996年10月までの期間、『氏族教会FAX-NEWS』に連載されたものです。
 文鮮明(ムン・ソンミョン)・韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁夫妻が提唱し、推進してこられた「統一運動」と、その運動理念である神主義、頭翼思想。その価値を再認識、再発見する機会としていただくために、稲森一郎氏の執筆による「神主義と頭翼思想~その理論と実践」をBlessed Lifeに再掲します(一部、編集部が加筆修正しました)。ぜひご活用ください。

宇宙の根源は何か
 全ての存在をあらしめた最初の原因、すなわち、「第一原因」としての神を認めるところから神主義に立脚した人生は始まります。

 ところで、神の存在を認めない無神論、共産主義の世界観が決して人間を幸福にするものでなかったことは、共産主義社会の建設という歴史的実験が失敗に終わったことによって証明されました。

 面白いことに、神を否定する共産主義も、宇宙の根源を全く認めないという立場には立てなかったということです。
 というのは、第一原因としての神を否定して、その神の代わりに物質を第一原因とする立場に立ったからです。

 すなわち、共産主義も宇宙の根源としての何らかの第一原因を認めなければ、この世界の存在を説明することはできなかったということです。

思想の混乱、求められる真の理念とは
 第一原因が何であれ、この世界に人間として生まれ、人間として生きる以上、結局、人間そのものが大切であるという考え方が、一方において存在します。

 「人間主義」といわれるこのような立場に立ったのがフォイエルバッハでした。
 宗教を全く否定したのでもなく、また革命に走るような戦闘的唯物論を主張したわけでもないフォイエルバッハの人間主義は、創造主としての神を否定し、人間による人間のための宗教を主張するものでした。

 キリスト教のような神を主体とし、人間を対象とする宗教ではなく、人間を主体とし、神を対象とする人間宗教の提示が彼の本音でした。
 従って彼のような考え方からすれば、神が人間を創ったのではなく、人間が神を創ったのであるということになってしまうのです。

 共産主義のような物本主義、そしてフォイエルバッハのようなキリスト教神学を逆さまにひっくり返した人間主義。
 さらにルネサンス思想に見られる人本主義に加えて、中世キリスト教社会の修道院に見られるような、物質的幸福も人間的欲望も否定して、ただ神のみを祈りと瞑想(めいそう)の中に求めた神本主義がありました。

 これらの思想と生き方の歴史的経緯をまとめてみると、神と人間と万物という三層的世界構造が、神のみを求める神本主義、人間を強調する人本主義、万物中心の物本主義というふうに部分主義に陥って、神と人間と万物を包含する統合主義の立場から離れて分断されてしまったということができるのです。

神主義とは何か
 神主義とは何か。
 神は全ての存在に対する第一原因としていましたまい、それ故、人間も万物もその究極的な原因主体として神を求め、神を尋ねなければ、人間の問題、万物の問題の真の解決はあり得ないという姿勢の中に、神主義の原点があります。

 すなわち、神のみを求めて、人間と万物の問題をどちらかといえばおろそかにしてしまった神本主義と違って、神主義は人間と万物の問題を積極的に解決していこうという立場に立っています。
 神主義は、必然的に神本主義と人本主義、および物本主義を歴史的に統合する立場に立たざるを得ないということになるのです。

「神」は、問題解決の絶対的原点
 「神」という一語の中に、人間と万物の問題を解決することのできる根拠がなぜあるかといえば、神の創造の法則において、神はご自身の姿に似せて、人間と万物を創られたという「相似の法則」が展開されたからです。

 宇宙究極の実体(ウーシア)としての神に形象的に似た実体として創られたのが人間であり、象徴的に似た実体として創られたのが万物だからです。
 神と人間と万物は実体と形象と象徴、あるいはサブスタンスとイメージとシンボルという関係が存在します。

 もし神と人間と万物がそれぞれ全く異質なものであれば、相互関係を持たないものの間において、解決の糸口を求めるということなどできるはずがありません。
 ここに神主義によって全ての問題を解決していこうとする絶対的根拠、あるいは全ての問題が解決できるという絶対的原点があるのです。