2023.10.13 12:00
スマホで立ち読み Vol.27
回顧録『愛あればこそ』4
久保木哲子・著
スマホで立ち読み第27弾、回顧録『愛あればこそ』を毎週金曜日(予定)にお届けします。
久保木修己・家庭連合初代会長の夫人である久保木哲子さん(430双)が、2023年9月18日に聖和されました。故人の多大な功績に敬意を表し、著作である『回顧録 愛あればこそ』を立ち読みでご紹介いたします。
ここでは第5章と第6章を試し読みいただけます。
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第五章 珠玉の宝石箱-宮崎開拓
夏季40日開拓伝道
当時は、1週間の修練会が終われば、すぐに21日間の特別修練会に参加するようになっていました。それで、特別修練会に参加しようとしたのですが、7月20日からの夏季40日開拓伝道に行くように言われたのです。
開拓に行くようにと言われても、開拓というのが何をするものかが分かりません。1週間の修練会に出ただけで、お祈りもまともにできません。そういう中で、40日開拓伝道に行くように言われたのです。
死にそうな子供を置いて、開拓伝道に行くことになったのです。私の旧姓が宮崎でしたので、宮崎に行くことになりました。
今のように、どこにでも教会のある時代ではありません。まだ地方にはほとんど教会がない時代でした。全国に拠点をつくるために開拓伝道が毎年行われていたのです。
その開拓伝道に行くに際し、家に帰って両親に報告しました。すると両親は、「開拓伝道に行くのはいいけれど、どこか近い所でやらせてもらえないのか。宮崎はあまりにも遠い」と言うのです。
今のように、東京から飛行機で1時間ちょっとで行けるような時代ではありません。東京から福岡まで夜行列車で行き、福岡で1泊して、そこから宮崎に行くのです。2日がかりで行く遠い所です。
長男は、病院から見放されて家にいます。小児結核で、肺にも水が溜(た)まって苦しい状況です。うつ伏せになって肩で呼吸をしている状態の子供を置いて、開拓に行かなければならないというのは深刻でした。
息子は、大きな目に涙をいっぱい浮かべて、「母さん、行かないでー」と泣きながらすがりついてきました。
その時、私は神様に談判祈祷しました。
「天のお父様、この子は生まれた時から病気を背負って、きょうまで苦しむためにこの世に来たようなものでした。私は、親としてやれるだけのことはしたつもりです。でも、この子の生命は、どうすることもできません。この子が、これだけの運命であるならば、あなたが召してください。もし、この子に使命が残っているならば、あなたが助けてくださるでしょう。私は、すべてをみ手にゆだねて開拓に行きます」
神がアブラハムに命令した「汝(なんじ)のイサクを捧げよ」ではありませんが、開拓伝道の天命に従っていくとき、旧約の歴史に出てくるアブラハムやモーセの心情の一端を感じた気がします。
そして、子供に次のようによく言い聞かせて出発したのです。
「ママが開拓伝道に行く宮崎には、誰も知っている人がいないのよ。そして、一銭のお金も持たずに神様のお仕事をしに行くのよ。あなたは、本当にわがままで、いつも給食のパンの耳を捨てていたけれども、この教会の人たちは、そのパンの耳で今日までやってきたのよ。あなたが捨てていた給食のパンの耳すら、ママが宮崎に行ったら食べられないかもしれないのよ。だから、ママのために、あなたもお祈りをしてちょうだい」
そうして、泣きすがる子供を置いて、先輩の梶栗惠李子(えりこ)さんと開拓に出ていったのです。宮崎駅のホームに降り立った時の深緑の鮮やかさが、今も鮮明に思い出されます。
夫が統一教会に行ってから、いくら苦労したと言っても、一円のお金で困ることはありませんでした。夫の収入がなくなったといっても、両親の経済的な基盤があり、私自身も洋裁の仕事をしていました。ところが、この宮崎では一円のお金の貴さを身にしみて感じさせられたのです。
宮崎に着いた私たちは、3日間は飲まず食わずで、駅のベンチで寝、一晩じゅう蚊に悩まされながら過ごしました。また、学校の宿直室に泊めてもらうなど、3日間は野宿や野宿同然で休みました。
3日間、何も食べていないので、おなかはもうぺこぺこです。水を飲むだけで、自然断食でした。神様は、つらい悲しい神様の心情を体恤(たいじゅつ)させるために、最初から館(やかた)を与えてくださらなかったのでした。
4日目を迎えた時です。梶栗さんが「聖地を決めないで、自分たちの寝る所を探していたことが、間違っていた」と言うのです。
そこで、「八紘一宇(はっこういちう)」の碑がある平和台公園に聖地を定め、そこで大地を叩(たた)きながら「この地の義人、聖人を立てさせてください」と祈りました。その後に、館が見つかったのです。
館が見つかったといっても、それまで3日間、いつも通っていた道沿いにあった家でした。それまでは、玄関に下げられていた移転の案内板が、なぜか目に留(と)まらなかったのです。そこは、元は医者の家で、今は大きなビルに引っ越ししたため空いていたのです。
その家を訪ねると、おばあさんが出てきました。その時は、おなかが空いて玄関にへたり込むような状況でした。
小さな部屋を一つ、40日間貸してほしいとお願いしましたが、断られました。それでも、物置の隅でもどんな所でもかまわないので貸してほしいと必死に頼み込むと、そのおばあさんは気の毒に思ったのか、「本当に40日だけですよ」と言って貸してくれることになったのです。
部屋に入ると、そのおばあさんは冷えたスイカを出してくれました。その時のスイカのおいしかったこと、生涯忘れることができません。スイカが、本当におなかにしみ渡っていきました。
そして、立派な二組の布団、二つの茶碗と箸(はし)、電気コンロ、まな板、包丁、皿、鍋、やかん、食器一式を揃(そろ)えてくれたのです。
梶栗さんは福島など2回開拓伝道の経験があったのですが、びっくり仰天して、「これは開拓ではありません。このような恵まれた開拓伝道は、初めてです」と言うのです。
住所が決まったことを家族に伝えると、よくここまで気が付いてと思うほど、いろいろな生活必需品がダンボールで送られてきました。本当に親兄弟というのはありがたいものだと心から感謝しました。
これにも梶栗さんは再びびっくりして、「こんなのは開拓ではありません」と叱(しか)られましたが、「巡回師さんが来られたら、九州で苦労している兄弟のために持っていっていただきましょう」ということになりました。
開拓というのはみんな1人でするもので、私たちのように2人でするのは例外中の例外でした。久保木が「1週間だけの修練で行くので、開拓というものを知らないから一緒に行ってくれ」と梶栗さんに頼み込んだのだそうです。
館が決まると、すぐに電話帳を開いて、近くの廃品回収屋さんを探しました。そこに電話を掛けてリヤカーを借り、廃品回収をするのです。どのようにするのか、私は分からず、ただ梶栗さんについて歩くだけでした。
連日の猛暑の中、お風呂に入るのは、1週間に1度、聖日の前夜だけでした。お風呂に満足に入れない生活も初めてで、毎朝4時に起きてお祈りをするというのも初めてでした。
お祈りを終えた後は、家の前の道路と家の中を掃除します。2人で朝拝をした後、パンの耳を食べて廃品回収に出掛けるのです。夕方は、繁華街に出ていって路傍伝道をしました。
その頃の廃品回収は、古雑誌、古新聞、空き缶、空き瓶(びん)などをもらって、それを廃品回収屋さんに持っていき、それをはかりで量ってもらってお金を頂くのです。
1日目の廃品回収は、2人で約500円少し。2日目は700円くらいでした。今から40年前のことです。当時、ピーマン一山が10円という時代でしたから、500円、700円といえば、私たちにとっては大金でした。
その廃品回収で得たお金で最初に買ったものは、講義をするための黒板とチョークと黒板消しでした。おなかが空いていましたが、食料を買う前に、み言(ことば)を伝えるために必要なものを揃えたのです。それらを購入すると、廃品回収で得たお金は全部なくなってしまいました。
夕方は「ご通行中の皆様!」と大きな声を張り上げて、路傍伝道をしたのです。その結果、夏休み中の高校生が何人か講義を聴くことになりました。
私は講義ができないので、梶栗さんが講義を担当します。私が1人でできることといったら、廃品回収しかありません。しかし、廃品回収を1人でするのは心細い限りでした。
しかも私は方向音痴で、あちこち回っているうちに帰る所が分からなくなってしまうのです。このようなときは、神様に必死にお祈りをする以外ありませんでした。親である神様は、霊的によちよち歩きの赤ん坊に対して、目を離すことはできません。歩き出した赤ん坊から、母親は一瞬も目が離せないのと同じです。本当に神様は、私をそのような幼子の立場で見守ってくださいました。
ですから、その頃は、祈ればすぐにその祈りは聞いてもらえたのです。神様との身近な体験というのは、あの開拓伝道でなければできなかったのではないでしょうか。草創期は、今とは少し違った意味で、祈れば神様が応えてくださった時代でした。
十分なお祈りはできないのですが、「神様、きょう私は1人でこのリヤカーを引いて廃品回収をしますが、よろしくお願いします」と祈って出発しました。廃品回収屋さんからリヤカーを借りたのですが、遠くへ行ったら館に帰られる自信がないので、すぐ近くから始めました。
リヤカーを引くのは大体、男性と決まっています。それで若い女性がリヤカーを引く姿を、人々は不思議そうに見るのです。
「今、私は神様の聖業のためにリヤカーを引いているのです」
と自分に言い聞かせて、恥ずかしさを吹き飛ばしました。
その借りたリヤカーは、タイヤがパンクしていて使えないリヤカーでした。でも、その日はそれしかなかったため、無理を言って貸してもらったのでした。ガチャンコ、ガチャンコという音を立てながらリヤカーを引きながら家を回り始めると、4軒目くらいの家で「リヤカーか何か、持っているの?」と聞かれたのです。持っていることを伝えると、「では、反対側にリヤカーを着けなさい」と言うのです。勝手口のほうにリヤカーを着けると、大きな物置きがあり、その中に、もう茶色に変色した新聞が山のように積んでありました。
「これ、みんな持っていきなさい」と言われてリヤカーに積むと、その1軒だけでリヤカーの3分の2くらいになりました。その後、銅の風呂釜を回収すると、リヤカーはいっぱいになりました。
銅の風呂釜は高価なものでしたが、その時はそんなことは知りません。こんな重たいものをと思ったのですが、持っていけと言われるのでリヤカーに積み、頂いてきました。
しかし、パンクしたリヤカーに載せて戻ってくる道は、どれほど大変であったか知れません。タイヤが溝に入って動かなくなったり、下り坂になると荷物の重さで加速度がついて止まらないのです。電信柱にぶつけてようやく止まりましたが、あんなに恐ろしい体験をしたのは初めてでした。
3日目は1人でしたのに、千三百余円になりました。廃品回収屋さんも梶栗さんも、びっくり仰天です。
「お母さん、やればできるじゃないの」と梶栗さんに言われると、私もその気になってきます。それで廃品回収なら私にもできると思って、毎日しました。毎日が、無我夢中であったため、家や子供のことはすっかり忘れていたのです。
40日の半ば頃に、家から葉書が届きました。それは、義父と子供からでした。長男の文面には、「母さんが開拓伝道に行ってから、僕の発作は一度も起こらなくなりました」と書かれていました。
義父からも、「あなたが開拓伝道に行ってから、孫の発作は一度も起こらないで、日に日に元気になっている。心配しないで、神様の仕事を一生懸命に頑張るように」と記されていたのです。
それを見た瞬間、「神様が私の祈りを聞いてくださった」と初めて確信しました。
それまでは「この子の病気を治してくれたら、統一教会の神を信じましょう。治してごらんなさい」といった傲岸不遜(ごうがんふそん)な祈りをしていました。神様にしてみたら「そんな祈りを聞けるものか」という失礼極まりない祈りでした。
私は、梶栗さんと抱き合って泣きました。
そこで「切れば血の出るような『統一原理』はすごい」と実感したのです。「原理」は生きている、原理原則というものが厳然としてあるということを体験したのです。
40日間の開拓伝道を終えて帰宅すると、青白くて骨と皮だけしかないほどやせていた長男は、見違えるように、日に焼けて真っ黒になっていました。義弟に連れられて富士山の近くにある山中湖へ泳ぎに行ってきたというのです。その息子の姿を見て、本当に神様に感謝を捧げました。
夫と私は、7年の歳月の後、やっと神様の願いを中心に心を一つにして歩むことができるようになったのです。そうなって初めて子供に手を差し伸べることのできた神様でした。夫婦が一つになるまでは、働きたくてもできなかった神様であったのです。
孟子の言葉に「天のまさに大任をこの人に降(くだ)さんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしむ」とあります。
天が使命をその人物に与えようとすると、必ず最初にその人の精神を崖っぷちに追いやり苦しめ、鍛え上げる。さらに精神だけでなく筋骨を痛めつけ、疲弊の極みにまで押しやる。天がその人物を鍛えて発奮させるため、あえて苦難を送ったのだという意味です。
後から振り返って見ると、この道に来るという「大任」を全うさせるため、すべては天から与えられた試練だったような気がします。
文(ムン)先生とお会いした2日後に1週間の研修、すぐに開拓伝道40日、特別修練会21日、千葉での献身的生活4カ月、そして祝福。結局、数えてみると、7年をちょうど7カ月に圧縮して条件を立てて祝福を頂いたのでした。
文先生にお会いしてからの私の運命は、まるで特急列車に乗せられたようなものでした。
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次回は、「WACL世界大会」をお届けします。