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スマホで立ち読み Vol.27
回顧録『愛あればこそ』5

久保木哲子・著

(光言社・『回顧録 愛あればこそ』〈2015525日初版発行〉より)

 スマホで立ち読み第27弾、回顧録『愛あればこそ』を毎週金曜日(予定)にお届けします。
 久保木修己・家庭連合初代会長の夫人である久保木哲子さん(430双)が、2023918日に聖和されました。故人の多大な功績に敬意を表し、著作である『回顧録 愛あればこそ』を立ち読みでご紹介いたします。
 ここでは第5章と第6章を試し読みいただけます。

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第六章 グランドツアー

WACL世界大会

 「国際勝共連合」は1968年に活動を始めました。久保木はその初代会長でした。

 日本の共産化の危機は、終戦以降、何度かあったと言われます。特に60年、70年安保闘争の頃は、学生や青年層に左翼勢力が浸透し、共産主義革命が実現しそうな勢いがありました。

 東京、大阪、京都と主要都市を革新首長に握られ、民主連合政府樹立を旗印に日本の共産化に向かって、飛ぶ鳥を落とす勢いの日本共産党をはじめとする左翼勢力に翻弄(ほんろう)された1970年代は、日本の政治が崖っぷちに追い込まれたような危機的状況にあったのです。もし、血のメーデー事件のように一部の共産主義者の画策によって国会議事堂が占拠され、臨時革命政府の樹立を宣言されたなら、後にアフガニスタンに侵攻したように、ソ連軍は北海道に雪崩のごとく押し寄せ、あっという間に日本は共産化される危惧(きぐ)があったのが、当時の政治情勢でした。今から思えば隔世の感があります。

 左翼団体が暴力革命準備の一環として行った血のメーデー事件とは、GHQによる占領が解除されて3日後の1952年(昭和27年)51日、デモ隊の解散予定場所であった日比谷公園から、北朝鮮旗を翻した人々を含む一部のデモ隊が、そのまま皇居前広場に乱入するなど暴徒化した事件でした。

 しかし、「共産主義は間違いだ!」の声が日本の空に上がったのです。久保木がその陣頭指揮に立ち、若き血潮を燃やした勝共会員が、共産主義者との対決の矢面に立って日本国民に訴え始めたのです。

 とりわけ1978年の京都府知事選は、一つの節目となりました。

 公安調査庁第一部長を務め、総理府総務副長官でもあった弘津恭輔(ひろつ・きょうすけ)氏は、「勝共連合の運動の歴史の中で、私が1番感動を覚えたのは、1978年の京都蜷川(にながわ)革新府政を打倒した時の、知事選における勝共連合の壮烈な闘いぶりであった」と述懐しておられます。

 当時、28年も続いた「京都蜷川革新府政」は、「京都共産王国」とか「人民共和国蜷川府政」などとマスコミ界で騒がれていたのです。ところが、78年の府知事選で、この日本革新政治の灯台の火は消されてしまいました。この蜷川府政崩壊を目の当たりにした日本共産党は、蜷川共産王国が倒れたのは、国際勝共連合の活動によると受け取ったのです。

 話は少し戻りますが、久保木は1969年、タイで開かれたWACL(世界反共連盟)総会に出席し、次のWACL世界大会を日本で開催したいと申し出て、満場一致で可決されました。

 そして1970年、WACL世界大会が日本武道館で2万人が結集して開催されたのです。

▲世界の要人ら2万人が結集したWACL世界大会(1970920日、日本武道館)

 まずWACL総会が京都国際会議場で開催され、久保木はWACL議長に選出されました。その総会の後、武道館で世界反共大会が開催されたのです。

 左翼運動の嵐が吹き荒れる中での、堂々たる世界反共大会でした。これは快挙でした。以来、WACL議長として世界を回り、各国の首脳と会談するようになったのです。

 大韓民国の朴正煕(パㇰ・チョンヒ)大統領との会談や中華民国の蒋介石総統との会談、それにローマ法王に謁見(えっけん)する機会もありました。

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 次回は、「世界一周」をお届けします。



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