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スマホで立ち読み Vol.27
回顧録『愛あればこそ』3

久保木哲子・著

(光言社・『回顧録 愛あればこそ』〈2015525日初版発行〉より)

 スマホで立ち読み第27弾、回顧録『愛あればこそ』を毎週金曜日(予定)にお届けします。
 久保木修己・家庭連合初代会長の夫人である久保木哲子さん(430双)が、2023918日に聖和されました。故人の多大な功績に敬意を表し、著作である『回顧録 愛あればこそ』を立ち読みでご紹介いたします。
 ここでは第5章と第6章を試し読みいただけます。

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第五章 珠玉の宝石箱-宮崎開拓

文鮮明先生との出会い

 やがて久保木は庭野会長と袂(たもと)を分かち、文鮮明(ムン・ソンミョン)先生の下で日本統一教会の会長になっていきます。

 19677月、文先生は二度目に日本に来られた時、久保木をなんとか祝福しないといけないと思われたそうです。それで、文先生に呼ばれてお会いすることになるのです。

 文先生は久保木をどうするか、本当に真剣だったのだとつくづく思います。

 「子供は3人もいます。しかし、妻は既に卵管を結び、子供が生めない身です」と、久保木は文先生に報告していたのだと思います。

 日本で最初の祝福家庭です。文先生がどれほど心配されたか、後になって私は分かるようになりました。

 子供が生めないとなると、祝福家庭の基台ができません。いろいろな教会員たちに聞いてみても、既成家庭も立派な祝福家庭の基台ができないといけないというのです。それで、私たちは夫婦のままでいるのは難しいかもしれないと、覚悟を決めざるを得ない立場でした。久保木も、それが分かって相当悩んだと思います。

 それで、文先生は、私にこの道がどういう道なのか言わないといけないから、久保木に「妻をすぐに呼べ」と言って呼び出したのです。

 その頃、私は洋裁ができましたので、義弟が作ってくれた洋装店を経営していました。

 その洋装店は駅前の立地の良い店でしたので、3人の裁断士と縫子(ぬいこ)さんを雇うくらい繁盛していました。ですから私は好きな仕事をして、夫のいない間でも経済的に困ることはありませんでした。

 仕事をしている時、久保木から電話が掛かってきました。そんなことは初めてでした。

 「今から、すぐに教会に来なさい」と言うのです。

 洋裁の仕事というのは、時間に追われながらお客様に納める仕事です。

 それで私はびっくりして、「突然、電話を掛けてきて、今すぐ来なさいと言っても無理です。行けませんよ」と言ったら、電話の向こうで、「来なかったら知らないよ!」と言うなり、ガチャンと切ってしまったのです。

 本来、そういう夫ではないのに、「何があるんだろう。どうしたんだろう」と不思議に思う気持ちが湧き上がってきました。何の説明もしないで受話器を切ってしまったのです。

 当時、南平台(東京都渋谷区)に教会があったのですが、それまで一度も教会に行ったことはないのです。それで人に道を聞きながら、教会を訪ねました。しかし、文先生の講話は既に終わっていて、先生は2階に上がっておられたのです。

 それで「私は忙しくて、すぐに帰らないといけないので帰ります」と言って帰ろうとしたのですが、小山田儀(のり)子さんが「ちょっと待って。せっかく来たのですから、文先生にご挨拶だけでもしていってください」と言って、私の手をむんずとつかんで2階に連れていくのです。

 そして「文先生、久保木会長の奥様が来られました」と言って、紹介してくださったのです。

 文先生はドアを開けて出てこられて、にこにこ笑いながら、私の頭のてっぺんから足の先まで眺(なが)め、「あなたが久保木さんの奥さんですか」とおっしゃり、続けて「久保木さん、この道は、奥さん、あなたも行かなければならない道なんです。どうか来てください。来てくれますね」と語られるのです。

 私がその時、どういう状況であるか、普通に考えれば、私まで教会に来るということは、到底できない立場です。

 長男が医者に見放されています。長男の面倒を見ないといけません。さらに3人の子供の面倒も、義理の両親のお世話もしないといけません。どうして夫のように教会に行くことができるでしょうか。

 ですから私が常識的な精神状態であれば、「ああ、そうですか、文先生。でも、今は難しいです。もう少し子供も大きくなれば、そういうこともできるかも分かりませんけれども、今は無理です」と申し上げたと思います。ところが、どうしたわけか、私にもよく分からないのですが、文先生のその言葉に逆らえないのです。

 いざ文先生の前に立つと、なぜか家の事情はすべて飛んでしまっていました。言って言えないことはなかったのに、その時はその事情を話すことができなかったのです。

 文先生の言われた「奥さん、この道はあなたも行かなければならない道なんです。来てくれますね」との言葉に対して、ただ「はい! 分かりました」の一言の返事だけだったのです。

 それで帰り道、どうしたらいいのか、本当に苦悩のどん底に押しやられたような、暗澹(あんたん)たる気持ちで家路につきました。

 「そんなことできるはずがないのに……。なぜ、今の私の事情はこうですと言えなかったのか」と自分を責めるばかりです。

 それでも、勇気を振り絞って、夫から電話があり文先生にお会いしたことを両親に話しました。「はい!」と返事をしたと、正直に義父に話したら、しばらく畳に視線を落としたまま考え込んでおられました。

 ところが、とんでもない返事が返ってきたのです。

 「そうか。文先生の言われるとおりだ。あなたが息子の妻として、行くべきだと思ったら、行きなさい」と言うではありませんか。

 私は思いもしなかった言葉にびっくりして、その場でただもう泣き崩れました。

 義父とすれば、「今にも死ぬかもしれない孫を置いて、どうして教会に行けるというのか。とにかく今は無理だよ。もう少し様子を見て、それから教会に行ったらいいじゃないか」と諭(さと)してもおかしくない立場なのです。私は当然、義父はそう言うだろうと推測していました。

 しかし、私たち夫婦は7年間も別居生活を送っているわけですから、義父は親として、息子夫婦をどうしてやったらいいのか思い悩むけれど、実際にはどうすることもできなかったのです。ですから義父にしてみれば、私たちは実に「悩みの種」そのものだったのです。

 義父は「子供は心配しなくていい。死ぬようなことになるかもしれないが、天のみ意(こころ)があれば、生かされるかもしれない」と悟り切ったような語り口でした。

 というのも、宗教が違うとはいえ、両親は信仰者です。人知では計り知れない天の事情こそが優先されるべきだとの基本姿勢を持っていました。今思えば、すごい信仰者だと頭が下がります。

 両親にとっても文先生のご来日で、文先生が私たち夫婦に対しても考えてくださっていることを知る契機になったように思います。

 なお義父に話した翌日、私の店を作ってくれた義弟のところに行って、義父に話したのと同じように話しました。義弟は「親父が姉さんにそう言ったなら、僕は何も言えない。姉さん、行ったらいいよ」と言うではありませんか。「店のほうは、誰か信用のできる人を雇えば何とでもなる。子供の面倒は僕たちが見てあげるから」と言ってくれたのです。

 義弟はとても家庭的な人で、家庭を大事にする人ですから、「父親がいない子供たちはかわいそうだ。その上、姉さんまで行ったらどうするの?」と当然、そう言われると思っていたのに、信じられない奇跡のような出来事でした。

 義弟の妻は、実は私の妹なのです。兄弟同士が結婚したという、本当に珍しい両家の縁は深いものがあるのでしょう。私が教会に来られたのも、このような背景があったからなのです。

 この時、長男は小学4年生の2学期の終わりから3学期まで、長期入院が続いていたのです。

 長男はあまりにひどいぜんそくのため、肺機能がすっかり痛めつけられ、そこに結核菌がついて小児結核を併発していました。長男は一晩中、苦しがっていました。

 ろうそくのようにやせ細り、医者からは「もうだめかもしれない。好きなようにさせてあげなさい」と言われ、入院先から帰されたばかりでした。言わば死の宣告を受けたような立場です。

 息子は肩を大きく上下させて、肺に異物が詰まったようにヒューヒューと音を出して苦しい呼吸をしていました。呼吸が苦しくて横になると、余計息ができないのです。

 だから、掛け布団を前に積み上げて、うつ伏せにしていました。そうした、あすにも死ぬかもしれない長男を置いて、1週間の修練会に参加したのです。

 結局、76日に文先生にお会いして、時を置かずに8日から千葉で行われた修練会に参加することになりました。

 その1週間、私は聖霊に満たされて泣き通しでした。講義を聞いては涙を流し、聖歌を歌っては涙を流す、お祈りしては涙がこぼれるといった、涙の川で産湯に浸かった新生の時でした。

 夫が「いつか必ず分かる時が来る。今は黙ってついてきてくれ」「親孝行のゆえにこの道を選んだのだ」と言って7年間、ほとんど家には帰らなかった言葉が鮮明に蘇(よみがえ)り、夫が統一教会に行くことになった本当の意味を理解できたのです。

 夫が何カ月かぶりに帰ってきた時、「あなたは親不孝ですよ。どれほどおじいちゃんやおばちゃんが心配しているか、分かりますか?」と聞いたことがあります。その時、夫は「何を言うの。僕ほど親孝行な者はいないよ。親父とお袋が霊界に行ったら分かる。温泉に連れていったり、小遣いをあげるのが親孝行ではない。修己がやったことは本当に良かったと喜んでくれる」と言うのです。私はその時には分かりませんでした。

 修練会で、とりわけ私が感動したのは、創造原理の「人間はみな一人一人が神の前に個性真理体である」という言葉でした。

 人間は神のそれぞれの個性を受け継いた存在だというのです。この地上に生を受けた一人一人が貴重な「神の子」であり、誰も取って代わることのできない唯一無二の存在だというのです。

 私というのはただ一人で、スペアになる存在はないのだから、私が精一杯のことをして、神のために人生を生きなければならないと思いました。

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 次回は、「夏季40日開拓伝道」をお届けします。



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