2023.09.29 12:00
スマホで立ち読み Vol.27
回顧録『愛あればこそ』2
久保木哲子・著
スマホで立ち読み第27弾、回顧録『愛あればこそ』を毎週金曜日(予定)にお届けします。
久保木修己・家庭連合初代会長の夫人である久保木哲子さん(430双)が、2023年9月18日に聖和されました。故人の多大な功績に敬意を表し、著作である『回顧録 愛あればこそ』を立ち読みでご紹介いたします。
ここでは第5章と第6章を試し読みいただけます。
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第五章 珠玉の宝石箱-宮崎開拓
結婚した時から新しい家で、長男の病気という気掛かりはありましたが、7年間というものは、結婚してこんなに幸せでいいのだろうかと思うほどでした。
夫も、「僕のおやじとおふくろは仲がいいんだ。僕たちもそういう家庭をつくろう」と、喧嘩(けんか)することもなく、幸せな結婚生活の7年間を過ごしました。「統一原理」を聞くまでは……。
病弱な長男
結婚して1年後、長男を生んだものの、滲出(しんしゅつ)性体質といって、アトピーとぜんそくの虚弱な子でした。普通の家であれば、病気がちということでしょうが、宗教団体の佼成会では違った捉え方になるのです。「佼成会の支部長の初孫が、どうしておできだらけで、小児ぜんそくで大変なことになるのか」と噂(うわさ)になるのです。要は、佼成会として何の証しも立たないわけです。
病気そのものとの闘いも大変ですが、そうした宗教団体の中の、辱(はずかし)めでも受けているようなつらさといったら、たまりません。筆舌に尽くしがたいものがありました。
長男は、ほかの信者さんが「かわいいお子さんですね」と顔をのぞくことさえできないような、目と鼻と口を切り抜いたマスクを被(かぶ)せられ、包帯をぐるぐる巻きにされた、大変な状態だったのです。
ですから「あなた、娘時代に親不孝をしたんじゃないの? 自分が生んだ子供が、こんなに親に面倒をかけるということは、あなたが親不孝した罰(ばち)です」と言われたとしても、何も言えないわけです。事実、私は母にさんざん不信仰を言ってきましたから、姑(しゅうとめ)にも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。早く何とかして治したい、その一念でした。
1年間毎日、雨の日も風の日も、盆も正月も、病院通いです。皮膚科への通院は休みがありませんでした。夏生まれの長男は、生まれて20日目くらいからボツボツと顔に汗疹(かんしん/あせも)のようなものが出始めました。秋風が吹けば葉が落ちるように、涼しくなれば治るだろうと思っていたのですが、ちょうど1歳の誕生日を迎えるまで結局、1枚の写真も撮ることができませんでした。
3カ月になると、手を顔のかゆい所へ持っていき、朝、見ると、顔中血だらけという壮絶な状況でした。結局、腕が曲げられないように、筒状のダンボールをはめて肘(ひじ)を固定するという、残酷なこともしました。手が曲げられないので、だっこをすれば、思い切り胸に顔を押しつけ、こすりつけてきます。毎日毎日が大変な葛藤でした。小さな体のお尻に、毎日、体質改善のための太い注射を打たれ、泣き叫ぶ我が子の姿を見て、胸は痛むばかりでした。
1年を迎える頃、その頑固な湿疹がうす紙が剥(は)がれるようにきれいになっていきました。ところが、それと引き替えのように、ヒューヒューと言うようになり、呼吸困難にまでなりました。病院に連れていくと、小児ぜんそくと言われるのです。ぜんそくというのは年寄りのかかる病気と思っていたので、びっくりでした。
それからというもの、そのぜんそくとの闘いが始まっていくのです。結局、1歳から小学4年生まで、ぜんそくは続きました。
小学5年になる時、私は学校に行き、4年生をもう一度やらせてもらえないだろうかと頼みました。あまりにも欠席が多く、本人がかわいそうなのでと、先生にお願いしたのです。
ところが先生は、「お休みは多いけれど、ちゃんと付いてきていますから、心配しなくて大丈夫」と言って、受け入れてもらえませんでした。
当時、夫は「統一原理」を聞いて信仰に燃え、ほとんど家に帰らない、出家しているような情況でした。
そんな夫のことを考えると、本当のところ、これから一体どうなるんだろうと、不安がいっぱいでした。でも、もう一方の心は、夫を信じてみようという強い心もありました。別に愛人ができて家に帰ってこない夫ではなかったからです。
信じてみよう。しかし、この先、一体どうなるのだろう。この二つの心の葛藤は続きます。
子供から「パパはどうして帰ってこないの?」と聞かれると、「神様のために一生懸命、お仕事しているのよ」と言うしかありませんでした。
私の母は当時、佼成会の副支部長をしていました。佼成会からの帰りに母はよく孫の顔を見に寄っては、「どうなの? パパはたまには帰ってくるの?」と聞くのです。私の両親も、私たち夫婦は心配の種でした。
それで母が「弟が、あなたに子供を連れて帰ってきていいよと言っているの。あなたもまだ若いのだから、離婚をしてもいいのよ」とまで言うようになりました。
その時、私は怒りました。
「お母さん、なんてこと言うの、離婚しろとは。必死で私は頑張っているのに。二度と別れろなどとは言わないで」
そう、食ってかかったことがあります。
久保木と離婚するなんて、夢にも思わなかったのです。それ以後、母は二度と離婚ということは口にしなくなりました。
久保木は「あなたに苦労を掛けるけれども、私を信じてくれ。3年間だけ待ってくれ」と私に言いました。久保木は3年で理想世界ができると本当に思っていたのです。「3年間苦労を掛ける。私はこれまであなたに不信を抱かせるようなことはしなかっただろう。だから、これからも私を信じてくれ」と言う久保木の言葉を信じて、離婚なんて考えたことがありませんでした。
人生というのは、幸せな良い時ばかりではありません。こういう時もあるのです。
今は、谷底に落ちたような立場で、どうなるか分からない、先の見えない暗黒のトンネルに迷い込んだような立場だけれど、必ず日の目を見る時が来る、そういう一途な信念だけで耐えた時期でした。
私は佼成会の信仰を持っていましたから、「夫が家に帰って来ないのは、妻の悟りが足りないためで、私の責任です。申し訳ありません」と言って、両親に詫(わ)びていました。
一方、両親は私に「修己は何を考えているのだか……。あなたには本当にすまない」と言って、お互いに思いやる関係だったからこそ、私たちは7年間という長い期間でも、悲しいとか、つらいとか、離婚したいとか、全然思ったことがなかったのでした。
振り返れば、子供は弱かったけれども、あまりにも幸せ過ぎた7年間でした。久保木は家庭を持って7年目に「統一原理」を聞いたのです。長男は病気で、それこそ大変でしたけれども、次の女の子は、放っておいてもすくすく育ってくれたので、本当に助けられました。
漢方がいいと聞けば漢方を試し、指圧がいいと言われれば指圧を試してみる、とにかくありとあらゆることをしました。長男から「何をやっても治らないじゃないか。こんな苦しい病気のままなら、僕は死んだほうがいい。僕は何のために生まれてきたんだ」と言われたことがありますが、胸がえぐられるような痛みがありました。代われるものなら代わってやりたいけれど、どうすることもできないのです。
親の心が子供に影響していったのでしょう。ぜんそくはどんどん悪くなっていきました。やっぱり、この世に神も仏もいないんだと思ってしまうような、精神的にどん底の生活でした。
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次回は、「文鮮明先生との出会い」をお届けします。