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信仰と「哲学」128
神と私(12)
再び、神はどこにいらっしゃるのか

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 神は「無限」なるおかたであると言わねばなりません。
 それは、全ての存在の「第一原因」であるからです。
 すでに述べたように、時間・空間も神から始まりました。ということは、神は時間・空間を超えた存在であるということです。
 神には、時間的限界や空間的限界はありません。すなわち、時間的、空間的な「ここまで、ここから」という「境」はないのです。それ故に「無限」なのです。

 このことを哲学の原点としたのがスピノザでした。
 彼は主著『エチカ』で「神とは、絶対に無限なる実有、言い換えればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなっている実体、と解する」と述べています。
 そして「全て在るものはそれ自身の内に在るか、それとも他のものの内に在るかである」とし、「全て在るものは神の内に在る、そして神なしには何ものも在り得ずまた考えられない」と明言しています。

 スピノザは、全ての結果的存在また全ての原因の究極の原因たる(第一原因としての)神の観念から、一切のことを定義・公理・要請の展開で、厳密な演繹(えんえき)において導き出すことができたとしたら、その得られた結論については何の疑いも残る余地はないと考えたのです。

 彼は、何が真理であるかより、何が幸福であり、何が善であるかを考え抜いた哲学者でした。
 ソクラテスと同じです。知ることの目的は理論的認識それ自体ではなく、認識による人間の救済、哲学から宗教への連結だったのです。信仰と哲学を一つにすることでした。

 私は「今、ここで、生きている神の懐の中に抱かれている」という実感を持って生活すること。変わらない神への愛を心に持ち続けることができる生活こそ、彼が求めた救済だったといえるでしょう。
 スピノザは「神に酔える哲学者」といわれました。

 『原理講論』は、「神を父母として侍り、人々がお互いに兄弟愛に固く結ばれて生きる」(33ページ)ことを要請しています。
 「時間と空間とを超越して自分の一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)を見ておられる神御自身」(34ページ)が父母であることを実感しなければならないとも記しています。

 そのためにはまず、「私は神の内に在り、神は私の内に在る」という認識、可能ならばその実感が日々の生活を占領していなければならないのです。