https://www.kogensha.jp/shop/detail.php?id=4163

信仰と「哲学」127
神と私(11)
神はどこにいらっしゃるのか

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 前回は、「私はどこにいるのか」について述べてみました。
 今回は、神はどこにいらっしゃるのか、について考えます。

 私たちが「天の父母様(神様)!」と祈るとき、どこにいらっしゃる神に祈っているのでしょうか。

 原理講義で神と被造世界について説明するとき、例えば黒板やホワイトボードを使って講義をする際は、「神」と記し、矢印を書いてその先に「被造世界」と書きます。
 このホワイトボード上には、人間(私)を含む被造世界の外側、空間的に見て別の場所に神が存在するかのように記されるのです。

 このような説明は、まず時間と空間が存在し、それによって神が規定されているかのようです。
 つまり、神の「前」に時間と空間があるということになるのです。

 この考え方では神がどこにいらっしゃるのかを本当の意味で理解することができないと思います。
 なぜなら、神は全存在の根本、本体であられ、「第一原因」だからです。
 「存在界のこのような第一原因を我々は神と」(『原理講論』46ページ)呼ぶのです。

 つまり神が第一原因であるということは、時間・空間も、その根本であられる神から生まれたものなのです。
 すなわち「絶対」なのは神のみであって、時間・空間は相対的存在なのです。神が「時空を超越されている」ということは、時空に縛られないということを意味するのです。

 以上のことから導き出される結論は、「(時間・空間を含め)全ては神の内にある」ということになります。
 私たちの祈りにおいて、「天の父母様」と呼びかけるときの天の父母様と私との関係は、私は「天の父母様の内」にあって祈っているとの認識が必要なのです。
 存在の在り方として、「天の父母様の愛の懐」に抱かれつつ祈っているということなのです。

 『原理講論』は神と被造世界との関係を次のように述べています。
 「神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である」(47ページ)

 心と体の関係が神と被造世界との関係であるというのです。この関係を「体は心の内にあり、心は体の内にある」と表現することも可能でしょう。
 新約聖書には、ピリポがイエスに神を見せてくださいと言った時、イエスが次のように答えたと記されています。

 「わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか」(ヨハネによる福音書第14910節)

 私は神の内にあり、神は私の内にあるのです。すなわち、神と人間は「心と体」の関係なのです。