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信仰と「哲学」126
神と私(10)
私はどこにいるのか

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 「あなたはどこにいるのか」(創世記第三章九節)。
 この聖句、神の呼びかけは、いつ触れても、そうだ「私はどこにいるのだろう?」と、心が糺(ただ)される響きがあります。

 この文言は、ご存じのように神が人間始祖のアダムとエバに呼びかけられた言葉です。
 それを取って食べれば死ぬと神が警告されていた「善悪を知る木」の果を蛇の誘惑を受けて食べてしまったのです。まずエバが、そしてアダムが取って食べた後、この呼びかけがあったのです。

 「どこにいるのか」について考えてみます。存在している状態は内外の関係性で説明することができますが、神は全知全能のおかたです。上下左右前後の空間性において、アダムとエバが「どこにいるのか」を神が知らない(認識できない)はずはありません。さらに、何が起こったのか(なされた具体的な行動)も知らないはずはないのです。

 ある人が、まさにそこにいる特定の人に向かって「あなたはどこにいるのか」と呼びかけている状態なのです。
 神はアダムとエバに何を問うているのでしょうか。
 言うまでもなく、空間的な位置についての問いではなく、内的・精神的なすなわち「心の在り方」について問うているのです。

 心の在り方は、「義」と言い換えることができると考えます。
 『原理講論』には義について、「善の目的を成就していく過程において、その善の目的に役立つ生活的要素を義といい、悪(サタン)の目的を成就していく過程において、その悪の目的に役立つ生活的要素を不義という」(74ページ)とあります。

 ここでいう生活的要素とは心の在り方、すなわち姿勢と捉えてもいいのではないかと思います。
 本来であれば神に侍(はべ)って生きるのが人間本来の在り方でした。それは神と「共にある」とともに、心情も共有する在り方です。
 『原理講論』には次のようにあります。

 「この新しい真理は、神の実在性に関することはいうまでもなく、神の創造の心情をはじめとして、神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久(ゆうきゅう)なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教えることのできるものでなければならない」(31ページ)

 その心情の関係とは、父子の因縁、父母と子女の心情因縁で存在している状態が本来です。その関係が切れたから、「あなたはどこにいるのか」と問われたのです。
 「私(私たち)はここにいます」とはっきりと言える者になろうではありませんか。