2023.10.16 17:00
信仰と「哲学」129
神と私(13)
新渡戸稲造との出会い
神保 房雄
「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。
今年に入って2度ばかり、講演のために岩手県の花巻市を訪ねました。
1回目(4月)は講演の後、宮沢賢治記念館を訪問し、その短い38年の生涯と作品を振り返ることができました。
長男が高校生の頃、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩を持ち歩いていたことを思い出しました。
2回目(7月)は講演の後、新渡戸稲造記念館に行きました。
花巻市は、新渡戸の「父祖ゆかりの地」なのです。その日は雨模様の一日でしたが、記念館を巡りとても得るものが大きかったのです。
多くの展示物の中で、ふと目に留まった言葉がありました。それは「宗教とは…」から始まる一文(新渡戸の言葉)です。
次のようにあったのです。
「宗教とは何ぞやと問へば、私の答へは、神に接して(神の)力を得、之を消化し、同化して己のものとし、(これを)他に現はす力であると云はねばならぬ。宗教の奥義は説き難く又考へ難い。学説や理論は、此の事については何の用をもなさぬ。唯朝夕の祈疇に於て、神に近づき、神に交はり、神の力を心に実験して、之を身に現はす様にするが、何より肝要の事である。宗教を研究するのは、実行に於てする外はない」(『新渡戸博士文集』より)
マルクスは「宗教は阿片(アヘン)である」と断罪しました。
結局、宗教は人間自身を滅ぼすものであるというのです。それは、先輩格の哲学者・フォイエルバッハが自著『キリスト教の本質』の中で、神への信仰は人間を貧しくする、と述べている内容を受け継いだものでした。
新渡戸は、宗教とは「神に接して(神の)力を得、之を消化し、同化して己のものとし、(これを)他に現はす力」であるとします。
この力強い言葉は宗教的体験抜きには語れないものでしょう。
新渡戸は、札幌農学校在学中にキリスト教の信仰を持つようになり、後に米国に私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学しています。
新渡戸はその頃、伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっていましたが、クェーカー派の集会に通い始め会員となります。
クェーカーたちとの親交を通して妻となるメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出会うことになったのです。
新渡戸の宗教観はクェーカー派の人々との交流によって培われたものだったのです。
「私は神の内に在り、神は私の内に在る」ため、信仰によって神と接し、力を得て自己の内に同化し、他者に現す(働きかける)ことができるようになるのです。
新渡戸にとって神への信仰は、力を新たに受けることであり、人間として豊かになって他者に働きかける力が自体内から湧き出すことにつながるものだったのです。