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神の沈黙と救い 43

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
四 ゲッセマネの祈り

イスラエル民族の将来のために

 なお付け加えれば、自分を十字架に追いやろうとするイスラエル民族のためにも祈られたはずである。ルカによる福音書にも次のように書かれている。

 「大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った。イエスは女たちの方に振りむいて言われた、『エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。……』」(二三・2728)。

 これから見ても、イエスはご自身のために祈られたのではなく、自分を十字架にかけた連帯責任としてイスラエル民族がこうむるようになる悲惨な運命を、できれば変えたいと思って祈られたに相違ないのである。

神の悲嘆を思って

 さらにもっと大きくは、もし自分が十字架にかからなければ、自分の時に地上に神の国をつくることができたのに、それが不可能となって人類が長く苦しまなければならなくなる。そのことについての神の悲嘆を思って、このためにも十字架が避けられればと祈られたのであろう。

 「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、『もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである』」(ルカ一九・4144)。

 十字架を初めからの神の予定だと見なければ、こうしたことが見えてくるように思われる。

 なお、ゲッセマネでイエスが「父よ、あなたには、できないことはありません」と祈られたことになっているが、神にもできないことはある。それはご自身が定めた原則を破るということであり、その原則の一つ、「人間の自由意志への不干渉」があることはすでに詳説した。

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 次回は、「神の操り人形?」をお届けします。