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神の沈黙と救い 42

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
四 ゲッセマネの祈り

弟子の苦難を思って

 十字架の後には復活がある。ところで、イエスご自身が十字架の試みを通過しなければならない以上、自分を主として仰ぐ者も、サタンがそれを欲すれば、同じように十字架の試練を経なければならない。いや、この試練はサタン(キリストに反対する者)の望むがままになされ、一方、神はそれに対して干渉されないから、日本の信徒が受けたような、水磔(すいたく)、穴吊りのような最も残酷な拷問をも避けることはできない。イエスご自身はそれを乗り越えることができるが、キチジローのような「弱か者(もん)」には大変な重圧であろう。

 イエスは将来の、特に弟子の苦難を思いやられた。それを思えば、この十字架は何とかして避けたい。何とか十字架なしにすます道はないだろうか?

 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ一四・3436)。

 ここでイエスは明らかに、十字架という「苦い杯」を飲まないですむようにと祈っておられる。もしも十字架が当初からの神のみ旨であったのなら、これは不信仰ではなかろうか? そうではなく、イスラエル民族の不信仰のため、やむなく彼らの身代わりの贖罪(しょくざい)をしなければならない立場なので、彼らが十字架を不可避なものとするような不信仰を犯さないようにしてくださいと祈っておられるのである。

 ここに伴ってきたペテロ、ヤコブ、ヨハネも同じイスラエル民族の一員である。したがって、彼ら三人がイエスと一緒に命懸けで祈れば、イスラエル民族すべてがイエスに不信仰をしたということにはならなくなり、ここに活路を見いだすことができたはずだった。

 現に、イエスの十字架の決定は微妙な群集心理によって決定された。ピラトはイスラエル民族の中での内輪の争いにはかかわりたくなく、そのためバラバとイエスのどちらを許してほしいかとなぞをかけた。バラバは殺人と暴動を起こした評判の男なので、こういえばイエスのほうを許せと群衆は言うだろうと思ったのである。ところが、祭司長や長老たちが群衆を説き伏せてイエスを十字架に送ったのである。もしもペテロ、ヤコブ、ヨハネがイエスの釈放を呼びかけたら群衆はその方向に動いたかもしれない。しかし現実には、一番弟子のペテロまでが「イエスと一緒だった」ことを三度否定したのであった。これは、ゲッセマネでイエスに協力して祈らなかったために群衆の勢いに押されてしまったのだとは見られないだろうか?

 イエスは未来の自分の信奉者のためを思えばこそ、血の汗を流してそれを回避できように祈られたのに相違ない。あの臆病だったペテロでさえ、イエスの復活後は逆さ十字架にかかって殉死した。ましてイエスが自分の十字架だけについて血の汗を流して祈られるはずがあろうか?『沈黙』のフェレイラ教父は自分が三日穴吊りにされても転ばなかったのに、五人の百姓が穴吊りにされるのを見てついに転んだ。それと同様の親心である。

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 次回は、「イスラエル民族の将来のために/神の悲嘆を思って」をお届けします。