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神の沈黙と救い 41

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
四 ゲッセマネの祈り

復活の条件

 さて、十字架でのイエスの立場がもしこのようなものであったとするならば、そのイエスと一体化することによって救いにあずかる司祭(パードレ)や信徒も、これと同じ道を越えることが要求されると見なければなるまい。

 すなわち、キリスト者が迫害を受ける時、神が一時イエスを捨てる立場を取られ、サタンの思うままにまかせたように、信徒たちに対しても一時捨てる立場を取られ、サタン(迫害者)に思う存分のことをさせ、それでも屈しなかった者にだけ復活の恩恵を与えざるを得ないのである。これがキリスト教信徒への歴史的・特殊的な神の沈黙である。

 そこでは、神が沈黙する中において、神から見捨てられたとしか思えない立場にあって、「神が捨てても私はあなたを信じます。あなたにすべてをゆだねます」と言えなければ、イエスと同じ立場に立てず、復活できない。それゆえ、この観点から見れば、非常に困難なことだが、どんな状況に置かれても、やはり踏絵を踏んではならず、穴吊りは絶命するまで屈してはならないのである。なおここで「復活する」というのは、肉体の復活ではなく、霊的復活、平たくいえば、殉教した後、パラダイス(パライソ)に行けるということである。

苦悶に満ちた祈り

 イエスはこのことを知っておられた。そのため、十字架に引き立てられていく直前の、ゲッセマネの園での祈りが苦悶に満ちたものとなったと思われるのである。

 そのことが『沈黙』の中にも書かれている。

 自分の知っている者たちがすべて眠っているこの夜、司祭の胸の裏を抉(えぐ)るように横切るのは、同じような一つの夜である。真昼の熱気を吸いこんだゲッセマネの灰色の地面にうずくまり、眠りこけている弟子たちから一人離れて、『死ぬばかり苦しみ、汗、血の雫の滴った』あの人の顔を司祭は今噛みしめる。かつて彼は幾百回となくあの人の顔を想いうかべ考えたが、このように汗を流して苦しんでいる顔だけは、なぜか遠いもののように想われた。しかし、今夜はじめて、その頬肉のそげた表情がまぶたの裏で焦点を結んでいる。

 あの人もその夜、神の沈黙を予感し、おそれおののいたのかどうか。

 さて、ゲッセマネでイエスは何を祈られたか? ――それは、今まで述べてきたことから十分察しがつくはずである。

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 次回は、「弟子の苦難を思って」をお届けします。