2023.08.20 13:00
神の沈黙と救い 40
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)
野村 健二・著
第五章 イエスに対する神の沈黙
三 第二次摂理としての十字架
愛と信仰の極致を示されたイエス
これが原罪のもとにある全人類の、とりわけその罪の総決算をするために神の2000年にわたる厳しい信仰の訓練を受けた選民イスラエルの不信仰に対する完全な償いとなるためには、神が十字架の苦痛の頂点で一時イエスを捨てるということがあらかじめ予期できるようであってはならない。そこで神は全く警告なしに抜き打ちでイエスを捨てられた。イエスが十字架上で「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫されたのは、それが不意打ちであったことを示している。それにもかかわらずイエスはすぐにその思いを鎮めて、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ二三・46)と、どこまでも神を絶対的に信じる姿勢を貫かれた。
サタンは、不信仰に陥ったイスラエル民族の代わりに、神からイエスの引き渡しを受け、思うがままに試みることを許された。そのため、イエスが針の先ほどの不信仰でも犯したならば、神に訴え、イエスの霊を神から切り離して自分のものにしようと息を殺して監視していた。しかし、全くどこにも付け入る隙を見いだすことができなかった。
またイエスは、自分を十字架に追いやった者たちのために、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・34)と、敵をも愛する愛の極致をも示された。
そこで神は、信仰の極致、愛の極致を現されたイエスを復活させ、この復活したイエスを主キリストとして信じ、愛を実践する者をも同様に復活させるという恩恵を与えることに成功されたわけである。すなわち、イエスとその信徒は、肉体はサタンに好きなように踏みにじられるが、霊は神が取られるのである。この恩恵にあずかっているのが、とりもなおさず、クリスチャンなのである。
---
次回は、「復活の条件/苦悶に満ちた祈り」をお届けします。