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神の沈黙と救い 39

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
三 第二次摂理としての十字架

エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ

 さて、ここで特に理解しがたく思われるのが、イエスの十字架上での絶叫である。この問題に立ち戻ってみることにしよう。

 「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)――それは、いつも沈黙しておられる神が、この時にもその沈黙を守っておられるというのでさえなく、いつもはイエスと一問一答して片時も霊的に離れることなかった神が、一番頼る者の欲しい十字架の苦しみの絶頂で突然沈黙された。すなわち、イエスとの間の霊的きずなを切って、捨ててしまわれたもののようにさえ見えるということを前に述べた。

 これは、神がイエスに与えた最大の試練であろう。では一体、なぜ神はこのような試練をされたのであろうか?

 使徒行伝には、「あなたがた(イスラエル)が十字架につけたこのイエスを、神は、主またはキリストとしてお立てになった」(二・36)とある。このことから見ると、十字架にかかる前のイエスにはまだ主キリストとされるべき資格がなく、神がイエスをキリストとして承認されるためには、十字架上での試練をイエスが乗り越える必要があったのだと見られる。

 では「キリスト」とは何か? それは無原罪のアダムの再来であり、原罪のもとに生まれた人間から原罪を取り除く務めをされる方である。では、原罪によって人間が失ったものは何であろうか?

 それは、何度も繰り返して述べたように、神はエバとアダムを愛し信じ、片時も見捨てなかったのに、二人は神の戒めを守らずにそれを破った。これは、神を捨てたと言い換えることもできる。

 人間が原罪をもつに当たって失ったのは、神へのこういう全き信仰である。これを償うためには、それとちょうど正反対に、神から捨てられてもなお、神を絶対的に愛し信じ続けなくてはならない。イエスが十字架上という限界状況のもとで課せられたのは、一つはこの信仰の試練であった。

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 次回は、「愛と信仰の極致を示されたイエス」をお届けします。