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神の沈黙と救い 38

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
三 第二次摂理としての十字架

イエス裁判の背景

 この摂理の変更は変貌山で告知された。

 「イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられる間に、み顔の様(さま)が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである」(ルカ九・2831)とあるのがそれである。

 これ以後、イエスは十字架にかかって死に、復活するということを預言されるようになる。そうして最後の晩餐(ばんさん)以後は、神がイエスをサタンに引き渡された結果として、神は沈黙し、サタンが全権を行使してやりたいままのことをするようになるのである。

 「毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」(ルカ二二・53)と、イエスが捕らえに来た者たちにいわれたのは、このことを指している。

 こうして摂理は最後のクライマックスを迎える。

 「夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した」(マタイ二七・12)。

 ここで「民の長老」というのはユダヤ民族の長老である。当時イスラエルはローマの属国であり、ローマの官吏ピラトの支配下にあった。

 イエスは総督の前に立たれ、ユダヤの祭司長、長老たちが口々にイエスの罪状について訴える。しかし、イエスは一言も答えられない。ピラトは、彼らがイエスを法廷に送ったのはねたみのためであることをよく知っており、妻が夢でイエスのことでさんざんうなされ、ピラトに「あの義人には関係しないでください」と訴えていた。そこでピラトは一計を案じて、祭のたびごとに群衆が願い出る囚人を許してやる慣例になっていたのを利用して、暴動と殺人のかどで投獄されていた評判の囚人――バラバとイエスとを並べて、おまえたちはどちらを許してほしいのかと問いかけた。

 すると、「祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた」(マタイ二七・20)。

 総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」(マタイ二七・2125)。

 サタンはこの言葉をとらえて、以後ユダヤ民族に猛烈な迫害を加え、その結果ほどなくユダヤは滅ぼされ、ユダヤ人は故国を失って離散の民となるのである。

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 次回は、「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」をお届けします。