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神の沈黙と救い 37

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
三 第二次摂理としての十字架

摂理の変更としての十字架

 では、この第二の摂理とはどういうことか?

 問題の原点に戻って、エバとアダムがなぜサタン(ルシファー)に支配されるようになったのかを考えてみよう。それは、神が二人を愛し信じ片時も見捨てなかったのに、二人は神の戒めを守らずにそれを破ったため、すなわち、不信仰のためである。

 この人間の側の不信仰によって生じた神との霊的断絶を解消するために、神はアブラハムを召命され、イサクを経て、ヤコブの時には家族全体の信仰の訓練をされた。さらに、モーセの時からは、ヤコブを祖とする民族全体の信仰の訓練を2000年にわたって続けられ、その信仰の土台の上に無原罪のメシヤ――イエスを送られた。したがって、イエスの時は2000年にわたるイスラエル民族の信仰の実を刈り取るべき時であった。

 ところが、エリヤの使命を果たすべき洗礼ヨハネ自体がイエスに従わず、エリヤであることまで否定してしまった。そのため、イスラエル民族の指導者層はイエスをメシヤとは信じず、逆に大祭司が先頭となってイエスを殺害しようとまで企てるようになった。このために、サタンがイスラエル民族の前に立ちはだかるようになるのである。

 エバとアダムは神の戒めを守らずに、「善悪を知る木」の実を取って食べた。この二人の不信仰により、神は二人を捨てざるを得なくなり、その結果、二人はサタンに支配されるようになった。

 それから4000年後(この年数は象徴的なものである)、神は2000年にわたって信仰の訓練をされたイスラエル民族の中にメシヤ――イエスを送られた。ところが、イスラエル民族はイエスをメシヤとは信じられず、逆に殺害しようとしている。こうなっては、神は、不信仰を犯したエバとアダムをサタンに引き渡して支配するのを許したように、不信仰なイスラエル民族全体をサタンに引き渡さねばならない可能性が濃厚となった。

 しかしここでイスラエル民族をサタンに引き渡したのでは、神の2000年の信仰の訓練が水泡に帰するばかりでなく、イスラエル民族は人類を代表するものなので、全人類がサタンの餌食(えじき)となって全滅する恐れがある。そこでやむなく、神は万一イスラエル民族が不信仰に陥った時の対策として考慮しておかれた第二の摂理――不信仰に陥ったイスラエル民族の代わりに、イエスをサタンに引き渡し、サタンの思うがままにさせるという道を歩ませざるを得なくなった。これが十字架の道なのである。

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 次回は、「イエス裁判の背景」をお届けします。