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神の沈黙と救い 36

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
二 洗礼ヨハネの生涯

責任分担不完遂の結果

 さてここで、神はメシヤをあかしする「エリヤ」として洗礼ヨハネを送り、天使ガブリエルを通して、ヨハネが「エリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行く」ということを中心テーマとする懇切丁寧な啓示を与えられたことで、ご自身の責任分担をすべて果たしておられる。洗礼ヨハネが具体的にどう行動すべきかの指示までは与えておられないが、それはヨハネが自分の自由と責任において自分で悟るべき事柄であった。

 それに対して、洗礼ヨハネは、天使ガブリエルを通して「エリヤの霊」と告知され(そのことはヨハネが成長した時、父ザカリヤから聞いているはずである)ているにもかかわらず、エリヤの使命を果たさず、自分がエリヤの立場であるとの認識さえも十分もたないままで横死した。すなわち、神がヨハネに託した責任分担は全く果たされていないわけで、こうなれば、神の摂理も変わってこざるを得ないのである。

 洗礼ヨハネは名門の祭司ザカリヤの子で、生まれた時から奇跡の子として評判になっており、荒野でらくだの毛ごろもを着て、いなごと野蜜だけを食べて修行し、ヨルダン川でバプテスマ(洗礼)を授けていた時には、上流階級のサドカイ人も大勢訪れてきていた(マタイ三・7)。したがって、ヨハネがイエスをただメシヤとして紹介するだけでなく、当然すべての弟子たちを引き連れてイエスの一番弟子となり、エルサレムから来た使者には、自分こそ待望されていたエリヤであるとあかしするべきだった。

 そうすれば、当時無名で大工の子であり私生児とのうわさもあって信じがたい存在だったイエス(これもイスラエル民族の信仰を称揚するために神がわざとそういう状況に置かれたのだと思われる)も、イスラエル民族の信奉を集めて一丸となり、ローマを心服させることも不可能ではなかったであろう。(真正面からぶつかっては難しかったであろうが、ペルシャ、インド、中国と回って、当時の宗教勢力を統合してぶつかれば、不可能だとはいえなかった。)

 しかし当の洗礼ヨハネが「そのおるべき所を捨て去った」(ユダ6)ために、イスラエル民族の指導者層(大祭司、律法学者、パリサイ人など)が、エリヤなしにメシヤであることを示唆するイエスを救い主と信じることができず、大祭司カヤパに至っては、「ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だ」(ヨハネ一一・50)と言い出すまでに至った。

 ここからイエスは、このイスラエル民族の全面的不信仰の償いをするために、十字架の死を通過して復活へという、最悪の場合を想定して神が準備された第二の摂理へと変更することを余儀なくされたのである。

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 次回は、「摂理の変更としての十字架」をお届けします。