2023.07.16 13:00
神の沈黙と救い 35
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)
野村 健二・著
第五章 イエスに対する神の沈黙
二 洗礼ヨハネの生涯
最低の立場まで落ちる
そうしてついに決定的な事件が起こる。
「さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、『あなたはどなたですか』と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。すなわち、彼は告白して否まず、『わたしはキリストではない』と告白した。そこで、彼らは問うた、『それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか』。彼は『いや、そうではない』と言った」(ヨハネ一・19〜21)
洗礼ヨハネがエリヤでないとすれば、エリヤが来ていないところに現れたイエスはメシヤではあり得ないことになる。このため、イエスはメシヤとして立つ立場を完全に失うようになられるのである。
「……パリサイ人たちがイエスに言った、『あなたは、自分のことをあかししている。あなたのあかしは真実ではない』。イエスは彼らに答えて言われた、『たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。………あなたがたの律法には、ふたりによる証言は真実だと、書いてある。わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである』」(ヨハネ八・13〜18)。
すなわち、イエスはやむを得ず、父なる神を証人に立てようとされるわけである。しかし、神は目に見えない。そこでパリサイ人は問うわけである。「あなたの父はどこにいるのか」(ヨハネ八・19)と。イエスは結局、自分がメシヤであることを彼らに証明することができないのである。
無知なイエスの弟子たちもイエスに尋ねる。「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」(マタイ一七・10)。それに対してイエスはこう答えることしかできなかった。「エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」(マタイ一七・12)。
このイエスの言葉を聞いて、弟子たちは「イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った」(マタイ一七・13)。またこれは、洗礼ヨハネがエリヤの役割を果たさず、エリヤであることまで否定してしまったことの無念さ、また、そのために自分がメシヤであることをあかしできず、偽キリストとして十字架につけられなければならなくなるであろうことを示唆されたものだとも見られる。
最後に洗礼ヨハネは、全イスラエル民族を「整えられた民」として「主に備える」というエリヤの使命(ルカ一・17)から離れて、主であられるはずのイエスに何も相談せずに、王ヘロデの不品行を責めるという無謀な冒険をして捕らえられた。そこで訳が分からなくなり、自分の弟子たちをイエスのもとに送って、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」(マタイ一一・3)と問わせるに至る。それに対してイエスは「わたしにつまずかない者は、さいわいである」(同一一・6)、「天国で最も小さい者も、彼(洗礼ヨハネ)よりは大きい」(同一一・11)と言われる。すなわち、ヨハネは最低の立場にまで落ちてしまったという以外に、言うべき言葉を見いだすことができなかったのである。
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次回は、「責任分担不完遂の結果」をお届けします。