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神の沈黙と救い 34

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
二 洗礼ヨハネの生涯

エリヤとしての使命の失敗

 洗礼ヨハネは成長して荒野でいなごと野蜜だけを食べて修行し、多くの民衆から信望を集めるようになった。「民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた」(ルカ三・15)。そのヨハネがメシヤのことを「わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない」(同三・16)と言ったので、待望の気持ちが人々の中でこの上もなく大きくふくれ上がっていった。ここまでの彼の行動は申し分のないものだった。しかしその後、果たして彼は、エリヤの使命を立派に果たしたといえるだろうか?

 確かに洗礼ヨハネは、イエスに会った時、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た」ので、「このかたこそ神の子であると、あかしをした」(ヨハネ一・3234)という。しかし彼はそのようにあかしをしただけで、イエスに従ってはいかず、自分の弟子がイエスについて行くのを黙認しただけであった(同一・3537)。「こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである」(ヨハネ三・2223)。この記述から、ヨハネがイエスとは全く別行動を取っていたことが分かる。参考までにいえば、イエスが活動しておられたユダヤとサマリヤ地方の北部のアイノンとは50キロも隔たっているのだ。

 さらに、ヨハネの弟子たちとイエスの弟子たちとは絶えず争論を繰り返している。例えば、「そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、『わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか』」(マタイ九・14)という具合である。

 そうして、多くの者がイエスのところに出掛けていると弟子たちが訴えるのに対して、ヨハネはこう答えている。

 「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。彼は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ三・2730)。

 ここで洗礼ヨハネは、かつてはひざまずいてメシヤのくつのひもを解く値うちもないといっていたのに、いつの間にか、花婿(すなわちメシヤ)の友人になり、「立って彼の声を聞き」というようにすっかり傲慢になっている。「彼は必ず栄え、わたしは衰える」に至っては、屈折した嫉妬(しっと)の表現だとさえ見られる。実際イエスに従っていきさえすれば、栄えるのも衰えるのも共通の運命だと思われるのに、どうしてこんな屈折したものの言い方をして、ついていくのを拒絶したのだろう。

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 次回は、「最低の立場まで落ちる」をお届けします。