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神の沈黙と救い 33

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
二 洗礼ヨハネの生涯

出生前後の奇跡

 このイスラエル民族の中で、最大の責任を負う立場にあったのが洗礼ヨハネである。

 それは、イスラエル民族に与えられていたメシヤ降臨の預言の中で一番重んじられていたのが、旧約聖書の一番末尾に書かれている、次のようなマラキの預言であったからである。

 「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」(マラキ書四・56)。

 すなわち、将来メシヤが来る時には、その先触れとして預言者エリヤ(ソロモン王の死後、統一されていた王国が南北に分裂した時代の初期に現れ、つむじ風に乗って天にのぼったと伝えられる大預言者)が送られる。逆にいえば、エリヤがまだ来ないのに、メシヤだと名乗り出る者がいても、それは偽者だからついていってはいけないというのだ。このようにイスラエル民族は神から警告されていたのである。

 さて、このように十分に準備された土台の上に、神に選ばれた祭司ザカリヤがくじに当たって聖所に入り、香をたいていた時、神は天使を通じて、ずっと不妊のまま高齢に達していた彼の妻が洗礼ヨハネをみごもるという告知とともに、「彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」(ルカ一・17)と告知された。これは、旧約聖書の一番末尾にあるマラキ書の預言(四・56)とそっくりで、人間は死んでいったん肉身を失えば、二度と再びそれを取り戻すことはできないので、神が「エリヤ」といわれたのは実は洗礼ヨハネのことであり、この聖句は、メシヤ降臨の前に、彼がイエスを迎えてその成功を全力で支える役割を務めることを示すものだったと見られる。実際、イエスご自身がこのヨハネを指して、「もしあなたがたが受け入れることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである」(マタイ一一・14)とはっきり言っておられる。

 このザカリヤは、聖所で天使の受胎告知を受けたとき、それを信じなかったのでおしにされ、その後子供が生まれてどういう名にするかと問われたとき、天使から言われたとおり「その名はヨハネ」と書いた途端に口が開かれて、神を賛美した。このため、その奇跡が人々の心に深くとどまり、「この子は、いったい、どんな者になるだろう」と口々に語り合ったといわれる(ルカ一・6266)。

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 次回は、「エリヤとしての使命の失敗」をお届けします。