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神の沈黙と救い 32

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
一 メシヤ預言の二面性

歪曲された十字架信仰

 こう考えると、イスラエルで実際に起こったことがそのまま神の当初からの願いであったとすれば、それはあまりにももったいないことだと言わざるを得なくなる。2000年の準備期間でそれを結実させるのにたった3年。それもそのほとんどは、イスラエルの貧しい人々に会われただけで、その他の国の人々は、そこでそんな事件が起こったということすら知らなかったのである。

 さてここで考えられることは、救いの摂理は神のみがなされることであり、人間がその摂理を曲げたり、破壊したりすることは絶対にできないという大前提に立っての十字架であった。ゆえに、それは当初からの神のご計画であり、そのことは旧約聖書に予言されていると、使徒たちはみな考えようとしたのではないかということである。

 しかし、旧約聖書の予言としては、前に述べたように、来るべき方は「ダビデの位」に座すという予言は10ほどもあり、このほうが圧倒的多数である。(十字架を示唆する予言がたった一つあるのは、もし万一、イスラエル民族が不信仰を犯した時のことを考えて、与えておかれたものであろう。人間は自由なので何をするかあらかじめ予知できない。そこで神は二つの相反する予言を用意しておかれるしか仕方がなかったのだと思われる。)そのほか、新約聖書に予言が的中したと書かれているところも、旧約聖書の字句が著しく変えられて引用されているところが大部分で、こじつけが多く、正しく引用されているのはたった2箇所にすぎない。

 それゆえ、これは、十字架が神の予定であったという信仰が初めにあり、後からその信仰に合うように、旧約聖書の字句を大きく改変してつじつまを合わせたものだとしか思われないのである。

 それに対して、神の救いの目的は不変であるが、その目的を達成するに当たっては、神が責任をもたれるところと人間が責任をもつべきところがあるという見方に立つと、全く違った見え方がしてくる。ここで、神が責任を負われる部分、イエスが責任を負われる部分は当然にもみな果たされている。特にイエスは全身全霊を投入して苦闘された。しかし、それを受けるイスラエル民族の責任はどうであっただろうか?

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 次回は、「出生前後の奇跡」をお届けします。