2023.06.18 13:00
神の沈黙と救い 31
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)
野村 健二・著
第五章 イエスに対する神の沈黙
一 メシヤ預言の二面性
イエス降臨の目的
神の人間創造の目的がそのようなものである限り、イエスを送る目的もそれと同じものでなければならないはずである。なぜなら、メシヤを送るのは人間を救うためであり、「救う」とは、言わば体なら病気の状態から元の健康な状態に戻して生きる目的を実現することだからである。人間は原罪によってその心が病気の状態となった。「神のかたち」とほど遠いものとなり、めいめいが属している国も戦争・紛争ばかりで「神の国」とは到底いえないものであった。それゆえ、その心の健康を取り戻し、「神のかたち」「神の国」を実現するのでなければ、本当の救いとはいえない。
もしそうだとすれば、その救いの中心人物が十字架上で亡くなってしまったのではどうにもならないのではなかろうか? イエスは「神のかたち」の完成者である。だからこそ、3年ばかりという短い公生涯の間に、人間の真の在り方を教え、また自らもそのとおりに生きてみせることができた。しかしその間に接触できた人間はごくわずかであった。もっと長く生き、全世界の注目を浴びる立場に立つことができたなら、生きながらにして全世界の人々に感化を及ぼすことができたかもしれない。
特に3年という公生涯は何としてもあまりに短すぎた。語られた言葉で記録に残されていることも決して多くはない。百歩譲って十字架で死ぬために来られたというのが本当だとしても、なぜそんなに死に急がれる必要があったろう。また、言葉というものはとかく抽象的すぎて、実際にそのとおり行動しようとすると、どうしたらよいか分からないことが多い。イエスは単にただ「ことば」であられた(ヨハネ一・1)だけでなく、「神のかたち」でもあられたのだから、言葉だけでは十分に表現できないことは、実際の生活ぶりを具体的に見せ、その生き方を示すことによって教えることもおできになったはずである。
とりわけ心情の豊かさ、清さ、力強さ、情の健全な持ち方、管理、もつれた情をどうやってほどくかといった情的問題は、実体に触れなければなかなか理解できないものである。実体との生な接触で初めてそれは体験できるものだからである。
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次回は、「歪曲された十字架信仰」をお届けします。