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神の沈黙と救い 30

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第五章 イエスに対する神の沈黙
一 メシヤ預言の二面性

王の王として来られるメシヤ

 神は選民イスラエルにおよそ2000年近くも厳しく信仰の訓練をなさった後、無原罪のメシヤ――イエスを選民の中に送られた。無原罪なので、そのまま神の直接指導のもとに、神と等しい人格にまで到達することができた。そのため、伝統的なキリスト教では、イエスを神としてあがめているが、この大宇宙を創造された神と全く同じものであるはずはない。イエスにこの大宇宙を自由に動かすことができるだろうか? イエスご自身、「子(イエス)は父(神)のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない」(ヨハネ五・19)と、その全能性が限られたものであることを証言しておられる。

 したがって、イエスにおいて神に等しいのはその人格、すなわち神性だけであって、その能力までが全く等しいと見ることはできない。

 それはさておき、神が神と等しい人格をもつ実体を地上に送られた、そもそもの目的は何であったのだろう。十字架につけてその尊い実体を破壊してしまわれることだったのだろうか?

 この十字架が神の当初からの予定だと見る神学者は、イザヤ書53章を挙げる。「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれた」(5節)。「しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」(12節)。しかし、旧約聖書の多くは圧倒的に、イエスが「ダビデの位に座す」と預言している。

 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、

 ひとりの男の子がわれわれに与えられた。

 まつりごとはその肩にあり、

 その名は、『霊妙なる議士、大能の神、

 とこしえの父、平和の君』ととなえられる。

 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、

 ダビテの位に座して、その国を治め、

 今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、それを保たれる(イザヤ書九・67)。

 そのほか、「ダビデの位」に座す、「王の王」になるという預言は、サムエル記下7章1213節、列王紀上8章25節、歴代志下6章16節、詩篇132篇1112節、イザヤ書16章5節、同60章1〜22節、エレミヤ書23章5〜6節など枚挙のいとまがないほど数多くある。そうであればこそ、ユダヤ人はいまだに十字架にかかったイエスをキリストとは信じず、「ダビデの位」に座す方の到来を待っているのである。

 新約聖書の記述でも、天使ガブリエルがマリヤに与えた受胎告知は、「……見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」(ルカ一・3133)であり、イザヤ書9章とほとんど同じ趣旨のものである。

 また、これまで説明したことからいっても、神の人間創造の目的は、個人としては、「神のかたち」を完成させること、全体としては「神の国」を実現させることである。イエスの福音の第一声も、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ一・15)というもので、十字架を示唆するような内容は何もなかった。

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 次回は、「イエス降臨の目的」をお届けします。