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神の沈黙と救い 29

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第四章 神の人間創造と罪からの復帰
四 人間の復帰と神の国実現

神と人間の責任分担

 しかし、そこにおいても、神は人間を神と同じく自己創造によって完成すべき者だと原則を定めておられるので、ご自身が担当される部分とは別に、人間が自由に自分の責任で果たすべき部分を残して摂理される。前者が他力でこの割合を仮に95パーセントだとすると、後者が自力の部分でこの割合が5パーセントとなる。

 その結果として、人間に責任をまかせた部分は当然ながら人間のやり方次第で変わってこざるを得ず、摂理が宿命的に一つに決定されてくるということはあり得ない。メシヤの派遣がこんなに遅れたのも、この人間の側の責任分担がずっと果たされなかったからなのである。

 反面、それでは摂理は人間の自由意志によってどうにでもなるのかといえば、そうではない。神が人間にまかせる責任分担に関しても、神は明確な目標と計画を立てておられ、人間の目的の達成の仕方が不十分だったとしても、さらには、神の目的に逆らったとしてさえ、その目標が変更されることはない。

 例えば、人間の成長の問題についていえば、神の願いは、人が「善悪を知る木」の実を取って食べてしまうことなく、絶えず分からないことは神に聞いて「完成」することであった。完成とは「神のかたち」となること、イエスのように、神の愛と英知と創造性を備えた人となることである。この「神のかたち」となる、具体的にいえば、イエスのようになるという目標は、「善悪を知る木」の実を食べた後でも変わらない。

 「わたしは神である、わたしのほかに神はない。……わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と」(イザヤ書四六・9〜10)。

 したがって、神の摂理の目標は決定的である。しかし、神の摂理のうちには人間に分担させる部分があるので、人間が自由意志によってその責任を果たさなければ、その摂理は未完成となり、後に改めてその摂理をやり直さなければならなくなる。すなわち、神の摂理の目標は決定的であり、過程は非決定的であるということになる。

 人間の成長の問題についていえば、人間は未完成のまま原罪によって堕落し、神との関係が切れてしまったため、原罪のもとにある人間は自力で完成することはできない。これは、原罪をもたない人──メシヤ(キリスト)の来臨とその導きにより、その未知の部分が明らかにされ、完成に到達することが可能となるというのが、これまでの考察から導かれてくる結論である。

 以上の観点から、第二の歴史的、特殊的なイエスの十字架の時の神の沈黙の意味を次に分析してみよう。

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 次回は、「イエスに対する神の沈黙」をお届けします。