2023.09.05 05:00
シリーズ中級講座 36
夜の神様、昼の神様<2>
世界家庭誌で2021年11月号から2022年12月号までの期間に掲載された「中級講座シリーズ」の内容を、「シリーズ中級講座」のタイトルで毎日朝5時にお届けすることになりました。信仰生活の向上、毎日のみ言学習にお役立てください。
伝道教育局副局長
入山 聖基
夜の神様の世界
「神様の中には、夜の神様もいて、昼の神様もいます。おふたりの神様ではありません。『夜昼』の神様だということを(人々は)知らないのです。
堕落とは何かと言えば、創造以降の創造物たちが、み旨を成し遂げることができなかったので、昼のことばかり知っていて夜のことは分からなくなったということです。皆さんは話すとき、『昼夜』と言いますか、『夜昼』と言いますか?(『夜昼です』)。分かっていることは分かっているのですね。『夜』が先です」(清平(チョンピョン)特別修錬会第1000回大役事(やくじ)記念礼拝、『トゥデイズ・ワールド ジャパン』2010年7月号2〜3ページ)
私は、「夜の神様」とは、天地創造以前の神様であり、「昼の神様」は、創造以降の神様であると考えています。聖書では、神様が「光あれ!」とおっしゃった瞬間から創造が始まり、6日を経て人間始祖アダムとエバが誕生したと説いています。一方、科学では、宇宙の始まりを「ビッグバン(大爆発)」とし、それから138億年という年月をかけて宇宙が形成され、人類が誕生したと説明しています。これらは、昼の神様の時代に当たると考えます。
しかし実際は、それより、はるか以前から神様の創造のみ業が始まっていました。「光あれ!」とおっしゃるまでに、創造の全体を構想する膨大な時間があったのです。それが夜の神様の時代であるというのです。まだ時間や空間すらない時代に、神様は、人間(アダムとエバ)を「愛したい!」という心情を抱き、その思いを実体化するための構想理想を生み出すために投入し続けていらっしゃったのです。
「精誠を尽くすことができない人は、弁明が多いのです。精誠を尽くす人は、精誠の度数をより大きくして尽くすべきことがいくらでも残っているので、弁明できないというのです。ですから、神様は沈黙を守ります。創世以来、今まで一言も語らず、精誠を尽くしているのです。神様は、全体のために、どんな存在とも関係を持てないものはないと言える位置に立つために、低い世界がより高い世界に進めるよう、今もさらに多くの精誠を尽くし、さらに多くの忠誠を尽くしているというのです。
今、先生(父母様)が行く道も、それと同じです。いつも新たに出発するというのです。それは、新しい精誠が加重されなければならないということです。そこには敗者の悲しみが伴うことはありません。勝者の喜びだけが伴うのです」(1996年2月18日、マルスム選集276─143)
話しているときが横的な時間だとすれば、沈黙しているときは縦的な時間と言えます。また、前者は昼の時間を、後者は夜の時間を象徴すると言えます。あらゆる被造物は夜に成長するので、人間は沈黙しているときにこそ、内的に深く成長するのだと言えるのではないでしょうか。
神様は長い沈黙の末に、天宙をつくられました。沈黙のとき、動きのないように見えるその時間に、夜の神様は深い心情を込め、精誠を尽くしていらっしゃったというのです。そうして、永遠の新しい朝を迎えました。それが天地創造です。そこからが、昼の神様の時間だというのです。
さらに、沈黙は祈りにもなります。人に思いを伝えるには、言葉を発する必要がありますが、神様とは、沈黙しているときも通じることができます。真のお父様は、誰よりもお話をされた、スピーチの長時間記録の持ち主です。一方で、誰よりも長く、深く、沈黙されたお方ではないでしょうか? 言えないことや、あえて言わないことも、たくさんあったのではないかと思うのです。
それでは、夜の神様の心情世界とは、どのようなものなのでしょうか。
「神様がアダムとエバを造るとき、お化けのようなものが妖術を使うように、一言のみ言で造られたのではありません。自分のすべてを投入し、解産の苦労以上のあらゆる苦労をされたというのです。それを知らなければなりません。神様も、アダムとエバを造るために解産の苦労をされたのです。
……創造の役事をするということは、力の投入を意味します。創造という力を消耗させるのです。神様は、そのように投入されたのですが、どれほど投入されたのでしょうか。人々は、聖書を見て、神様がみ言で『こうなれ!』と言われて簡単に創造したと思っていますが、そうではありません。ここには、真の生命を完全に投入し、真の愛を完全に投入し、真の理想を完全に投入されたというのです。一〇〇パーセント投入することにより、なかったものが生じてくるのです」(『神様の祖国解産完成』124〜125ページ)
夜の神様の時代に、限りない愛が投入されたのです。神様は、何もないところから創造する“生みの苦しみ”を通過されました。
創造のゴールは最初から決まっていました。それは、ご自身の実体であり、わが子となる人間をつくることです。神様にとって、人間をいかなる姿にするか、人間が暮らす環境、宇宙をいかにつくるかがテーマでした。こうして、人間の姿が形づくられ、光を中心に宇宙がデザインされました。その過程には神様の愛と情熱が完全投入されています。宇宙の太初に起きたビッグバンや、太陽系の中心にある灼熱の太陽、地球内部のコア(核)や地表に噴出するマグマなどは、その愛と情熱を象徴しているのではないでしょうか。
「この宇宙は、聖書にあるように、神様の『さあ万物よ、生まれなさい!』というひと言で、瞬く間にできたのでしょうか? もしも、そうだとするならば、それは価値がありません。愛すべき価値がないというのです。つくるために苦労し、つくるために精誠を尽くしてこそ、深い心情や深い因縁が結ばれるのです。何かを買ったとしても、待ちに待って、探しに探して、まごころを込めて買ってくれたものと、まごころを込めないで、いいかげんに買ってくれたものとでは、価値が違います。ですから、神様は精誠を尽くさずに、ひと言で創造したのではありません」(『父が聞かせてくれる愛の話─2 神様のプレゼント』35ページ)
神の創造は、簡単に一言で成されたのではなく、産苦を超える投入によって成されました。夜の神様の限りない精誠と心情投入の果てに、ついに天地創造の設計図ができ上がり、私たち人間の姿かたちがつくられたというのです。
建造物は、設計図に従って建てられています。東京スカイツリーのように巨大な建築物には、膨大な計算が施された設計図があるはずです。このように、何事にも実体の前には構想があり、実体が複雑であればあるほど、緻密に練り上げられた設計図があるのです。
この世には、素晴らしい建築物が数え切れないほど存在しますが、神様の構想は、それらの設計図と違う点があります。超高層ビルを建てることができる現代人でも、小さな朝顔の種一粒をつくることはできません。
朝顔は、光と水、空気が適度にあれば、種から芽を出して根や茎を伸ばし、葉をつけるなど、形態を変化させながら自律的に成長し、花を咲かせます。つまり、空間や時間までも考慮して種が設計されているということです。
宇宙は、光や空気から小さな花の種に至るまで、大きな一つの設計図で描かれています。これが、正に神様の創造のみ業です。そこには、気が遠くなるほど膨大な精誠が積み重ねられ、愛が投入されているのです。そうであれば、一人の生命を生み出す背景には、どれほどの精誠が込められているのでしょうか。
しかも、人間は皆、唯一無二の個性体です。その中の一人が「私」なのです。私たちが人間として地上に生まれたとき、すでに世の中には、必要なものが全て整えられていたと言えるのではないでしょうか?
神様の創造の最終ゴールは人間ですが、アダムのあばら骨からエバがつくられたという聖書の記述からすると、人間の創造は、いっぺんになされたものではなく、「男性→女性」という順番があったことが分かります。人間の女性が、最終創造物だということです。
「心だけで刺激を感じようとしても、無形の実体なので感動が薄い。同じもの同士で回っていては刺激がない。そこで神様は、ご自身の相対的な刺激を必要として、プラスとマイナス格の相対型であるアダムとエバを創造した。神様がそのようなアダムの中に入って、エバと一つになれば、そのエバは外的にはアダムの妻、内的には神の妻となるのである」(1986年2月16日、『天地の大道』163ページ)
エバはアダムの相対としてつくられましたが、神様の妻でもありました。創造は、男性(アダム)→女性(エバ)→神の子女(神の血統)へとまっすぐに向かっていたのです。それを構想された夜の神様には、人間に対する愛が満ちあふれていました。それゆえ、愛の実体世界がつくられたのです。そして、昼の神様となられて以降、神様の愛はさらに人間に注がれ、「私」に注がれてきたというのです。
「わずか一滴の水を見ても『君は大海原の水と縁のある、偉大な水だなあ』とほめてあげなければなりません。小さな一本の草花を見ても、そのように称賛しなければなりません。博物館に有名な画家の描いた風景画があったとしても、それは人間が描いた絵画にすぎません。それは神様が直接つくった草花とは比べものになりません。この宇宙は、神様がわたしたちのためにつくってくれた、生きた博物館です」(『父が聞かせてくれる愛の話─2 神様のプレゼント』56ページ)
私たち人間は、神様の愛によって誕生し、自然を通して、日々、その愛を受けています。この地上に生きていること自体が、すでに奇跡なのです。理論物理学者の佐治晴夫博士は、次のように語っています。
「最新の分子生物学によれば、この聖書の記述は事実とは反対であって、宇宙はまず、最初に女性を標準形としてつくり、そこから、必要性に迫られて、男性をつくったとするのが妥当であると考えられています」(佐治晴夫著『女性を宇宙は最初につくった』春秋社刊、134ページ)、「宇宙はまず、女性をつくり、その後で、男性をつくったようです。ですから、女性の方が、より強く、精巧につくられていることは間違いなさそうです」(同67ページ)、「人間のからだの原型は女性なのですから、その構造は完璧にできていますが、男性はその一部をいろいろと転用しながら、適当につくられている」(同152ページ)
面白い考えですね。最新の宇宙科学では、「人間原理宇宙論」という考え方が出てきていて、「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測しえないから」という論理が用いられているようです。
佐治博士の研究によると、「宇宙の中心はまず、女性」(同274ページ)です。男性は、「自分に似せた再生品」(同159ページ)としてつくったとまで述べています。アダムのあばら骨でエバを創造したという聖句(創二・22)が思い出されます。
ちなみに、今から半世紀以上も前に書かれた『原理講論』には、「宇宙は何のためにあるのであり、その中心は何であるのだろうか。それは、まさしく人間である」(59ページ)と書かれています。統一原理の偉大さを改めて感じさせられます。私たちは、真理の光である統一原理を、世の中に堂々と証していくべきではないでしょうか。
(続く)