2023.08.22 17:00
シリーズ・「宗教」を読み解く 280
キリスト教と日本(59)
「天地は過ぎん、されど我が言は過ぎざるべし」
ナビゲーター:石丸 志信
1945年8月9日、長崎に原爆が投下され、一度に多くの生命が奪われた。
その時、爆心地から約700メートルの距離にあった長崎医大の研究室に永井隆博士はいた。爆風で飛び散るガラス片や散乱する調度によって重症を負ったものの彼は一命を取り留めた。
婦長はじめ集まってきたスタッフで医療チームを結成し、すぐさま救護活動を開始した。彼らはわが身も顧みず、家族の安否を気遣う暇もなく目の前にあふれるおびただしい負傷者の一人でも助けようと懸命の活動を続けた。
3日目になり、急場の活動に一区切りをつけ、一旦自宅に戻った永井隆は、焼け跡になってしまった台所の片隅に妻の亡きがらを見つけた。
焼けただれて見る影もない姿に変わってしまった愛妻の、小さな遺骨を拾い集め、バケツに入れて持ち帰った。
妻の実家の森山家は浦上キリシタンの末裔(まつえい)で、彼女自身も熱心なカトリック信者だった。出雲出身の長崎医大生、永井隆に下宿を提供してくれたのが森山家だった。
永井隆は初めて長崎のキリシタンの歴史を知り、キリスト教の信仰に触れた。森山家の人々の誠実な祈りに支えられて、彼はカトリック信者になり、森山家の年頃の娘みどりと結婚した。
部屋の窓から正面に見える赤レンガの浦上天主堂を眺め、朝夕流れるアンジェラスの鐘の音を聞きながら学業に励んだ永井隆は、放射線医学を専攻する研究者となった。
彼は戦時中、結核のX線検診に従事したが、透視による診断を続けたため、終戦間際には白血病の診断が下され、余命3年と宣告されていた。
近い将来、健康な妻が自らの亡きがらを葬るであろうと思っていたが、一発の原子爆弾が家族の運命を変えた。
「妻も亡くなった。…祖国は敗けた。…浦上教会も全滅に近い。東洋一の大天主堂はれんがの山と化し、一万の信者のうち八千は主に召された。幾世紀の迫害にひるまず、ここまで大きくなったのも、水の泡だった」(永井隆著『亡びぬものを』サンパウロ 1996年 406~407ページ)
彼は、愛妻の遺骨を埋葬した時の心境を自伝的小説にこう記している。
その後、夜の闇と絶望が押し寄せ眠りに落ちたが、暁に正気を取り戻し、静寂の中でロザリオを手に取り祈った。
「東の空が明るくなってきた。絶望の闇の中へと向かって、そこから希望の光が射しそめてくるかのように思われた。…静かに力づよく、ささやく声を聞いた。『天地は過ぎん、されど我が言は過ぎざるべし』――イエズスのみ声であった」(同 408ページ)
地獄の様相を呈した原子野のただ中に、亡びないもののために生きようと決意する一人の信仰者の姿があった。
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