2023.08.21 22:00
宣教師ザビエルの夢 3
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)
白石喜宣・著
第一章 日本人とユダヤ・キリスト教
一、日本に押し寄せたキリスト教の波
●最初の殉教とその結果
さて、長崎の海にせり出した西坂の丘で26人の切支丹(キリシタン/◆注2)が十字架上で処刑されたのが1597年の真冬でした。当初、24人が京都で捕らえられ、その後、2人が自ら進んで囚人の一行に加わりました。26人の旅人は、下は12歳の少年から上は64歳、また、スペイン人、メキシコ人、ポルトガル人、日本人と、年齢や国籍、身分も異なる一団でした。しかし、いずれの人物も歴代の殉教者の模範に倣って、真に勇ましき最期を遂げました。その雄々しき姿は、今も西坂の丘に立てられた記念碑に刻まれています。
キリスト教史においては、西欧世界にも知れ渡ったこの輝かしき殉教も、純粋な宗教的要因ばかりではなく、その他の様々な要因によって引き起こされたものであったということを知るにつけ、この日本にとって実に悲しい事件であったと、私には思えてくるのです。詳述は避けますが、ひとつの要因として、当時日本に上陸していた二つの宣教会が、その宣教方針の違いから対立していたということが挙げられます。そのようなキリスト教会内部の亀裂に付け込み、時の日本の為政者・秀吉はキリスト教の受容に対して反対の姿勢を強めたのです。
彼自体はその後キリスト教に対して大々的な迫害を行ったわけではなく、翌年にはこの世を去っています。切支丹たちが安心したのも束の間、徳川時代に入ってからは、より本格的な迫害が始まったのです。1613年の禁教令、翌年の切支丹国外追放令以後、どれほど多くのキリスト者の血が流されたか分かりません。26聖人(◆注3)の殉教に見られるような秀吉の決断は、一時的なものではあったとしても、その影響の大きさは量り知れません。これが、日本の為政者がキリスト教に「ノー」の判断を下すという前例となったからです。徳川幕府は、その政策を容易に継承することができました。明治政府になってからも、西欧諸国からの非難を浴びるまではその姿勢を変えることはありませんでした。日本は、はっきりとキリスト教を否定し続けたのです。日本に初めて押し寄せたキリスト教宣教の波は、二世代ほどで失速し、四代を経る頃には沼地に沈むように、表舞台から消えていきました。そして、その後7代の間、キリスト教の信仰は日の目を見ることはありませんでした。
◆注2:切支丹/ザビエル渡来以降、禁教令撤廃(明治6年)までの日本のカトリック信仰およびその信者。
◆注3:26聖人/1597年、キリスト教徒であるために長崎で処刑された宣教師・信徒26名。1862年、ローマ教皇ピウス九世により聖人に列せられた。
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次回は、「宣教師が残した課題」をお届けします。