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宣教師ザビエルの夢 4

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第一章 日本人とユダヤ・キリスト教

一、日本に押し寄せたキリスト教の波

宣教師が残した課題
 私は、この時代に西洋より到来したキリスト教宣教師が残したいくつかの課題があると感じています。先ほどの宣教会の対立もその一つですが、それに加えて、拭(ぬぐ)い難い西洋キリスト教徒の東洋人に対する優越感があります。確かに、フランシスコ・ザビエルは出会ったときから日本人の優秀さを認め、その後継者も宣教地の文化・伝統を尊重してきました。しかし、一方で、そう見ない者もいました。事実、当時日本人が上級の聖職につくことはほぼ不可能な状態にありました。優れた人材も、宣教師の補佐にとどまることしかできませんでした。新しい価値観を身に付けた日本生まれの指導者が立ち現れるまでには、しばらくの時間と葛藤を要したのです。

 450年前にさかのぼり、およそ1世紀の切支丹(キリシタン)時代に展開した様々なドラマを思い起こしていると、波涛(はとう)を越えて、この地に魂の救済と新しい文化の種をもたらしてくれた宣教師への、尊敬と感謝は尽きることがありません。しかし、同時にいい知れぬ深い悲しみにも襲われます。それは、被宣教国の民であるがゆえに、宣教師からも距離を置かれ、西洋ではぐくまれた新しい価値観と文化に触れたがために、日本国からも否定されてしまった日本人キリスト者の苦悩を感じるからでしょうか。この国の救済を願い、この地を愛し抜いた人々の果たしえぬ思い、それを「恨み」と呼ぶならば、その深い恨みを抱きかかえつつ、歴史は流れてきました。

 キリスト教宣教の第三の波から、はや半世紀が流れた今日、来るべき21世紀はもう目前に来ています。この国に託された「天職」というべきものがあるならば、それを知るためにも、この日本におけるキリスト教の歴史を想起し、そこに秘められた人々の願いに耳を傾け、恨みを解いて、輝かしき未来へとつなげていきたいものです。

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 次回は、「マニラに建つ武士像」をお届けします。


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